被爆80年託す想い 3564人の声から <4> ノーベル平和賞
25年7月10日
運動や証言の追い風に
日本被団協がノーベル平和賞を受賞する―。2024年10月、報道機関から電話を受けた京都府大山崎町の胎内被爆者、林昌也さん(79)は耳を疑った。じわじわ喜びが湧いてくる。これは追い風にせねば、と。アンケートにも書いた。「受賞を大きな節目として、後継者を育成し、世界に向けて発信し続けていくことが最も重要。京友会は精一杯頑張ります」
京友会とは「府原爆被災者の会」の略称。会長に就いた昨年6月から頭を悩ませていた。「このままでは解散に追い込まれる。心配で…」。近県では奈良、滋賀、和歌山が既に解散した。府内も活動をやめる地方組織が続出。約40年前に1600人を数えた会員は、200人を切った。
自らも70歳を過ぎて肝臓、肺など四つのがんを次々に患い、治療を続ける身。それでも活動はやめないという。心にあるのは62歳で逝った父の姿。召集先の広島で被爆し、その身を案じた母も身重の体で高梁市から広島市へ入り被爆した。
両親はともに命を拾い、戦後は高梁市内に日用品店を構えたが、子ども心に残る父はいつも病気がちだった。店番をするのがやっと。「今思えば被爆の影響ですよね」
消せぬ火 焦る中
70歳ごろから被爆者運動に関わり、この火は消せないと、焦る中での朗報。方々に窮状を訴えていたからか、受賞のニュースが流れると、友人たちから支援金が届いた。先月の総会で、府外の賛助会員も入会できるよう規約を変更。被爆2世にも精力的に働きかけている。
「受賞は、頑張れとのメッセージ」と林さんは受け止める。「この機に2世や協力者に運動をつないでいくことが僕の仕事かな、思うとります」
初めて語る人も
受賞に背を押され、体験を語り始めたり、初めて手記を書いたりした人もいた。長崎で被爆した岐阜市の女性(81)は「14、5名の前で、私は被爆者です、という事を話しました。しっかり聞いて下さいました。世の中、変わったなと実感しました」と明かす。
一方、核軍縮が前に進まない現状を指摘する声も。広島原爆に遭った大阪府の男性(85)は被団協の運動をたたえつつ「成果という物差しで見れば全く成果がない、残念である」。入市被爆した広島市の男性(93)も「(委員長は)おめでとうと誉(ほ)め称(たた)えたのではない。世界の人類に『眼を覚ませ』と警告したと認識すべきだ」と記した。(編集委員・田中美千子)
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証言「核戦争防止に影響」6割
2024年12月10日、日本被団協はノーベル平和賞を贈られ、「核兵器が二度と使われてはならない理由を身をもって立証してきた」とたたえられた。被爆者はどう受け止めたのだろうか。
中国新聞、長崎新聞、朝日新聞の3社合同アンケートで、「被爆証言が核戦争の防止や平和に影響を与えてきたと思うか」と問うたところ、「思う」が64・8%で、「思わない」の10・5%を大きく上回った。草の根で積み重ねてきた証言への自負や敬意がうかがえる。
受賞が「日々の活動や生きていく上での励みになったか」では、「とても」(30・5%)「ある程度」(36・9%)を合わせ「励みになった」層が7割弱を占め、受賞をおおむね好意的に受け止めていた。一方、励みにならなかった層は「あまり」と「全く」を合わせ8・5%。「どちらともいえない」が18・8%だった。
(2025年7月10日朝刊掲載)