広島二中 被爆死 294人を確認 本社が調査 詳細分かる 1年生 遺骨なお42%不明
99年11月16日
広島市への原爆投下時、一年生が爆心地から約五百メートルの旧中島新町での建物疎開作業に動員されていた広島県立広島第二中学校(広島二中、現・県立広島観音高)の被爆死状況を、中国新聞社は十五日、遺族たちの協力を得てまとめた。一年生二百七十一人をはじめ、二年生以上の上級生十六人、教職員七人の計二百九十四人の詳しい状況が分かった。一年生の確認死没者のうち、五四%に当たる百四十六人が一九四五年八月六日に爆死し、四二%の百十三人が遺骨不明のままにある。
旧中島新町は、現在の平和記念公園南側一帯に当たる。公園西側に六一年建立された慰霊碑に刻まれる三百五十二人の名前を基に、広島二中の「戦災死者遺族委員会」が残した資料などから遺族を捜し、一人ひとりの被災状況を追った。
一年生は、国の命令による広島市の第六次建物疎開作業に動員され、八月六日は旧中島新町に集合していた。今回、新たに分かった二人を含む一年生の確認死没者二百七十一人のうち、西観音町二丁目(現在の西区観音本町二丁目)の校舎で被爆した一人(四七年死去)と、入市被爆の一人(六二年死去)を除く、全員が被爆して六日後の十二日までに死去。また、引率教師三人と二年生一人が作業現場で被爆し、九日までに亡くなっていた。
一年生は、碑には六学級三百二十一人の名前がある。今回の調査で分かった二人は、疎開や父の転任で広島二中に転入していた。一方、碑で死没者とされている二人の生存が判明した。作業現場に向かう途中や自宅で被爆した後、転校していた。
また、広島駅北側にあった東練兵場に動員されていた二年生は七人(うち中島新町が一人)、三菱重工業広島機械製作所に動員中の三、四年生は八人、五年生一人、教職員七人(同三人)の計二十三人の被爆死状況をつかんだ。二十一人が四五年十一月までに、一人が翌年、一人が四八年に亡くなっていた。
遺族のうち、今も健在の父母は五十二人にとどまる。最高齢は九十九歳、最年少でも八十三歳になる。親の世代に代わって、きょうだいらは「念願の中学に入学しながら、戦争のため、勉強さえできずに死んだのは残念でなりません」と、碑前で毎年八月六日に営まれる慰霊祭に出席している人も少なくない。
(1999年11月16日朝刊掲載)
旧中島新町は、現在の平和記念公園南側一帯に当たる。公園西側に六一年建立された慰霊碑に刻まれる三百五十二人の名前を基に、広島二中の「戦災死者遺族委員会」が残した資料などから遺族を捜し、一人ひとりの被災状況を追った。
一年生は、国の命令による広島市の第六次建物疎開作業に動員され、八月六日は旧中島新町に集合していた。今回、新たに分かった二人を含む一年生の確認死没者二百七十一人のうち、西観音町二丁目(現在の西区観音本町二丁目)の校舎で被爆した一人(四七年死去)と、入市被爆の一人(六二年死去)を除く、全員が被爆して六日後の十二日までに死去。また、引率教師三人と二年生一人が作業現場で被爆し、九日までに亡くなっていた。
一年生は、碑には六学級三百二十一人の名前がある。今回の調査で分かった二人は、疎開や父の転任で広島二中に転入していた。一方、碑で死没者とされている二人の生存が判明した。作業現場に向かう途中や自宅で被爆した後、転校していた。
また、広島駅北側にあった東練兵場に動員されていた二年生は七人(うち中島新町が一人)、三菱重工業広島機械製作所に動員中の三、四年生は八人、五年生一人、教職員七人(同三人)の計二十三人の被爆死状況をつかんだ。二十一人が四五年十一月までに、一人が翌年、一人が四八年に亡くなっていた。
遺族のうち、今も健在の父母は五十二人にとどまる。最高齢は九十九歳、最年少でも八十三歳になる。親の世代に代わって、きょうだいらは「念願の中学に入学しながら、戦争のため、勉強さえできずに死んだのは残念でなりません」と、碑前で毎年八月六日に営まれる慰霊祭に出席している人も少なくない。
(1999年11月16日朝刊掲載)