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[歩く 聞く 考える] ヒロシマとホロコースト 記憶の語られ方 問い直す好機 米ペンシルベニア州立大教授 ラン・ツヴァイゲンバーグさん

 世界が大きな犠牲を払った第2次大戦の終結から80年。イスラエル生まれのラン・ツヴァイゲンバーグさんはたびたび広島に足を運び、戦後ヒロシマの記憶形成を、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)とも比較し研究している。被爆の惨禍を体験した日本は戦後「平和主義」を掲げ、一方ホロコーストの記憶を持つイスラエルはひたすら武力に依拠してきた。対照的な二つをたどることで、見えてくるものがあるという。「記憶」の観点から戦後史を検証する意味を聞いた。(論説委員・森田裕美、写真・宮原滋)

 ―なぜヒロシマの研究を。
 私の祖父母はホロコーストを経験しています。母方の祖父母は体験をよく語ってくれた一方、父方の祖父はほとんど話さなかった。私は家族を通してさまざまな記憶があることを知りました。米国の大学で学んでいた20年余り前、初めて広島を訪れました。被爆者の話を聞き、自分の国と似ていると思ったのです。

 ―何が似ていましたか。
 被爆者と対面し、自分の祖父母に話を聞いているような気持ちになりました。ホロコーストと原爆はまったく異なる出来事ですが、ともに生存者の心に影を残しています。証言者が歴史的悲劇の烙印(らくいん)を押され、体験を語る人と語らない人がいることなど多くのことが似ていました。

 ―膨大な史料を調査し、何が見えましたか。
 ヒロシマは「平和の起点」として位置付けられました。被爆者の訴えは核兵器使用は許されないという核のタブーをつくり、80年間、実戦使用をさせなかった。被爆者運動の歴史的重要性は疑いの余地がありません。ただ公の記憶として捉えると「臭い物にふた」をした側面も見えてきました。

 ―どういうことですか。
 「平和都市」としての復興過程を見ると、被爆者の米国に対する怒りや軍都だった過去の生々しい事実は直視されず抽象的で明るい「平和」という言葉で覆われています。

 爆心直下の街だった中島地区は平和記念公園として整備され、原爆に破壊された営みは、物理的にも見えなくなっている。不幸な歴史を忘れようとしているかに見えます。

 ―原爆被害者の米国への強い怒りは今もあります。
 個々はそうでしょう。しかし公的な言説からは加害者の存在が欠落し、普遍化されていきます。米国への激しい憤りや憎しみは、まず占領下の検閲によって抑えられ、やがて日米の「和解」や「未来志向」を押し出す動きによって、政治から切り離されていきました。

 ―イスラエルはどうですか。
 「ネバーアゲイン」の思いが核廃絶に向いたヒロシマと対照的にホロコーストを体験したユダヤ人共同体のイスラエルは核や武力を持って徹底的に戦う方向にいきました。

 イスラエル政府はユダヤ人が抱える歴史的なトラウマを利用しています。ホロコーストと2023年のハマスによる攻撃を同一視し、パレスチナ自治区ガザへの加害を正当化しています。被害者意識には注意が必要です。

 ―権力に利用されますね。
 人間は見たくないものは見ません。自分の被害はよく見えますが、他者の傷は見えにくく、加害に無関心になりやすい。両方見なくてはならないのに。だから歴史を学ばないといけないのです。

 ―広島では被爆者亡き後どうするかの議論があります。
 体験者がいなくなるのはホロコーストも同じです。大切なのは、これから過去にどう向き合うかです。被害者は当事者として語り伝えてきました。体験のない私たちは、少し冷静で客観的に過去に目を向けられませんか。被爆から80年たったヒロシマは見落としてきた問題を考える好機です。

 ―見落としてきたとは。
 加害の過去や公的な歴史では語られないジェンダーの問題などです。世界で核危機が高まる中、ヒロシマは一層重視されるべきです。だからこそ既存のヒロシマの記憶がどう語られ、形成されてきたか検証が必要です。不都合な歴史から目を背けず、「ふた」を開けることが求められます。

 1976年イスラエル生まれ。米ニューヨーク市立大で博士号(歴史学)。国連勤務などを経て現職。九州大留学生センター准教授と広島大原爆放射線医科学研究所客員准教授も務める。邦訳著書に「ヒロシマ グローバルな記憶文化の形成」。原著は米国アジア研究協会のジョン・ホイットニー・ホール著作賞受賞。米国と福岡市を行き来して暮らす。

(2025年7月16日朝刊掲載)

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