[ヒロシマドキュメント 1946年] 7月 「似島学園」開設へ準備
25年7月16日
1946年7月。原爆投下直後に多くの負傷者が運ばれた広島湾に浮かぶ似島(現広島市南区)に元教員たちが渡り、戦災児教育所の開設準備を進めていた。
整備地は、島東部の元陸軍の倉庫跡。もとは日清戦争を機に、伝染病対策で設けられた帰還兵たちの検疫所だった。孤児たちが寝泊まりでき、教育も受けられる施設へと改修を目指した。
設立者の一人で、後の園長の吉川豊さん(2002年に86歳で死去)は46年4月に復員したばかり。「広島駅に降り立った時、多くの浮浪している子供達を目前にし、なんとかこの子供達を健全に育て、幸せにしてやりたい」(96年刊の「似島学園50年のあゆみ」)との思いを抱いていた。
8月には名称が「似島学園」に決定。学園は広島県や市の職員の協力を得て、広島駅(現南区)一帯にいる身寄りのない子どもたちを集めた。9月3日に34人で開園。ただ当初は食糧不足で、海水を利用して塩を作って米や麦などと交換してもらった。島民たちも食糧集めなどで協力。10月には児童保護施設として知事認可を得た。
村岡治さん(88)=南区=は11月に入園した。当時9歳。45年8月6日は今の東区周辺にあった軍靴工場で被爆し、父と共に広島駅で飢えに耐える日々だった。たまたま父と離れていたときに声がかかり、島へ渡った。
「きちんとした食事が食べられ、寝る場所もある。幸せでした」と振り返る。突然、親子離れ離れになった寂しさはあったが、「仲間がいたので不思議と怖くはありませんでした」。理容師の職業訓練を受け、18歳で学園を離れた。住み込みで働いた後、自分の店を持った。ただ、父との再会はかなわぬままで、人づてに亡くなったと聞いた。
学園は児童養護施設として今に至り、これまでに延べ2582人が入園した。(山本真帆)
(2025年7月16日朝刊掲載)
「ヒロシマ ドキュメント」はこちらから
整備地は、島東部の元陸軍の倉庫跡。もとは日清戦争を機に、伝染病対策で設けられた帰還兵たちの検疫所だった。孤児たちが寝泊まりでき、教育も受けられる施設へと改修を目指した。
設立者の一人で、後の園長の吉川豊さん(2002年に86歳で死去)は46年4月に復員したばかり。「広島駅に降り立った時、多くの浮浪している子供達を目前にし、なんとかこの子供達を健全に育て、幸せにしてやりたい」(96年刊の「似島学園50年のあゆみ」)との思いを抱いていた。
8月には名称が「似島学園」に決定。学園は広島県や市の職員の協力を得て、広島駅(現南区)一帯にいる身寄りのない子どもたちを集めた。9月3日に34人で開園。ただ当初は食糧不足で、海水を利用して塩を作って米や麦などと交換してもらった。島民たちも食糧集めなどで協力。10月には児童保護施設として知事認可を得た。
村岡治さん(88)=南区=は11月に入園した。当時9歳。45年8月6日は今の東区周辺にあった軍靴工場で被爆し、父と共に広島駅で飢えに耐える日々だった。たまたま父と離れていたときに声がかかり、島へ渡った。
「きちんとした食事が食べられ、寝る場所もある。幸せでした」と振り返る。突然、親子離れ離れになった寂しさはあったが、「仲間がいたので不思議と怖くはありませんでした」。理容師の職業訓練を受け、18歳で学園を離れた。住み込みで働いた後、自分の店を持った。ただ、父との再会はかなわぬままで、人づてに亡くなったと聞いた。
学園は児童養護施設として今に至り、これまでに延べ2582人が入園した。(山本真帆)
(2025年7月16日朝刊掲載)
「ヒロシマ ドキュメント」はこちらから