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[戦後80年 備後] 学びも青春も 動員に奪われて 松永高女の卒業生3人 呉での体験語る

「つらい思い私たちで最後に」

 多くの若者たちが軍需工場や農村に動員された先の大戦。松永高等女学校(福山市神村町、現松永高)の女学生も呉市広地区に送り出され、学びと青春を戦争にのみ込まれた。卒業生3人が取材に当時を振り返り、「つらい体験をするのは私たちの世代で最後にしてほしい」と願った。(藤田智)

 3人は、岩本静子さん(96)=尾道市向東町、杉原ケイコさん(96)=福山市水呑町、河塚トシさん(96)=同市藤江町。1941年に入学し、セーラー服をまとい自転車で通学した仲だ。ただ、憧れの「高女生活」は長く続かない。太平洋戦争が始まると農作業の奉仕や木造船造りに駆り出され、戦時一色に染まった。

 松永高女に動員がかかった44年6月、他校の高女生とともに呉市の第11海軍航空廠で働いた。「飛行機部第14中隊」に配属された3人は、航空機の部品製造や検査を担った。翌年の3~7月には米軍機が襲来。爆撃や機銃掃射はもちろん恐ろしかったが、貧しい食事やシラミが年頃の女学生には特にこたえた。

 3人にとって忘れられない人がいる。国語教諭を務め、動員まで付き添った溝入吾壱さん(故人)だ。終戦から40年以上たち、還暦を迎えた生徒へ贈った歌がある。

 ふみも筆も 乙女の夢も 捨てゆきし 短き青春(はる)に なにを報いし

 晩年は「教師として何もしてやれなかった」と悔やんでいたという。ただ、溝入さんに救われた命があった。

 岩本さんは動員後に肺炎で入院し、療養のため地元に帰らされた。「すぐに治して戻ります」と伝えると、溝入さんから諭された。「犬死にするな。教え子を一人でも生きて残したい」。国のために死ぬことが美徳とされた時代、当時は反発を覚えたという。

 戦後、同級生たちと語り合う中、岩本さんと同様に「療養」などの名目で帰郷を促された人が他にもいたことが分かった。「先生には敗戦が見えていたんだ」。恩師の懸命な思いがようやく分かった。

 同窓会を開くことができたのは米寿の祝いが最後。多くが鬼籍に入ってしまった今、3人は当時を忘れまいとあらためて誓う。

(2025年7月23日朝刊掲載)

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