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連載・特集

戦後80年 広島不屈のモノ語り <3> 針・ボール

技術が調和 世界で弾む

窮状越え 製品の幅拡大

 焼け跡から掘り出して油で磨くと、飛ぶように売れたという。たたら製鉄を源流に、戦前から広島を代表する特産品の縫い針。「すぐに会社が復興できたのは、針が生活必需品だったからだろう」。広島市西区楠木町の針メーカー、萬国製針の高橋正光会長(87)は、被爆から間もない頃を思い起こす。

 1945年8月6日、今と同じ場所にあった工場は原爆で倒壊。高橋会長は当時、済美国民学校の2年生で、近くの自宅で助かった。しかし、広島一中(現国泰寺高)1年の兄清恒さんが被爆死。捜していた叔父が、広島赤十字病院(現中区)の近くで息絶えていたのを見つけたという。

 高橋会長は「辺りはがれきの山。原爆で兄が亡くなり、父は打ちひしがれて仕事をする気をなくしていた」と振り返る。父の敏雄さん(98年に90歳で死去)は46年に事業を再開。無事だった機械を整備し、今も楠木町の工場で使い続けている。

 戦後は、縫製用品販売会社の相手先ブランドによる生産(OEM)を軸にする。80年代に米国市場に進出するなど事業を広げたが、安い中国製に押された。

 最近は裁縫ブームで受注が盛り返してきた。「針には金属加工の技術が凝縮されている」と高橋会長。先端をとがらせるノウハウや、頭の部分に穴を開けてプレスする技術は戦前から受け継ぐ。今も手縫い針は国産のシェア7割を誇る。

 楠木町周辺は被爆前、工場が並んでいた。針、木材、ゴム、紙―。戦時下は軍都広島のものづくりを支えた。そして、原爆は工場群を「がれきの山」に変えた。競技用ボールなど製造のミカサ(安佐北区)の前身で、大正時代にボール作りを始めた増田ゴムも楠木町で全てを焼失していた。

 広島でゴム産業が盛んになったのは大正時代だ。縫い針がボールの製造に使われ、ボール産業につながったとも言われる。地元企業の歴史を調べた市郷土資料館(南区)主任学芸員の玉置和弘さん(57)は「針会社から分社化したゴム会社もある。広島針の発展で関連工場が集積した背景を考えると、なかったことではない」とみる。

 増田ゴムは46年、連合国軍総司令部(GHQ)の指導で運動用ゴムボール(ドッジボール)の生産に乗り出す。ただ、材料不足に苦しんだ。ミカサの社史によると、52年に入社した社員が「ゴム材料があまりなかったので、長靴やボールの不良を粉末にし、草履や自動車の泥よけにした」と窮状を証言している。

 ドッジボールは最盛期に年20万個作り、ディズニーのキャラクター入りが人気を集めた。ソフトボールやゴルフ、ボウリング向けなどにも製品の幅を広げていった。佐伯祐二社長(55)は「時勢を読んでいたのだろう」と推し量る。

五輪の試合球に

 中でも注目したのがバレーボールだ。サッカーは既にメジャーで、他社の製品が普及していたが、バレーは人気が出始めた頃だった。当時社長の仲田国市さん(96年に82歳で死去)は佐伯社長の祖父。「祖父は今で言う差異化と、国際化を大切にしていた」と話す。64年の東京五輪で公式試合球となり、国際バレーボール連盟に品質と安定供給をPR。69年に1社で国際大会の公式試合球を担う権利を得た。

 「バレーと言えばミカサというのは世界で知られている。脈々と受け継いでいるのが誇り」と佐伯社長。扱いやすく、均質なボールを作り続けることを目標とする。競技人口の多いサッカー用のボールにも力を入れ、伝統と歴史をつなぐ。

途上国に向けて

 広島を代表するもう一つのボールメーカーがモルテン(西区)だ。荒廃した工場を再生し、58年に創業。4年後に火災で工場を失うなど不運にも見舞われた。それでも前を向き、世界的なメーカーに成長した。民秋清史社長(50)は「焼け野原を経験しているだけに、精神的な強さが違うんでしょう」と語る。

 バスケットボールは11大会連続、ハンドボールは3大会連続で五輪公式球になるなど、世界で認められている。2021年には組み立て式のサッカーボール「マイ フットボールキット」を発売した。発展途上国などに空気入れが不要なボールを届けようと企画し、開催中の大阪・関西万博にも展示している。

 民秋社長は言う。「ボールが嫌いな人はいないし、触ったことがない人もいない。球体は調和を生む」と。原爆の焼け跡から立ち上がった力強さと、ゴムのようなしなやかさ。不屈の歴史が刻まれたボールは、世界の球技を支え、次世代を担う子どもたちの育成にも貢献している。(赤江裕紀)

(2025年7月25日朝刊掲載)

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