戦後80年 広島不屈のモノ語り <1> 自動車エンジン
25年7月11日
広島の経済に甚大な損失をもたらした戦争と原爆。人を奪われ、工場を奪われ、全てを失った企業は少なくない。ゼロから立ち上がった先人たちの意思が礎となり、この地から多彩な製品が生まれた。戦後80年の夏。暮らしを支える製品やサービスに秘められた不屈の物語を次代に伝える。
1945年8月6日。東洋工業(現マツダ)の社長、松田重次郎さんは70歳の誕生日を迎えた。午前8時15分。少し前まで滞在した広島市中心部に、米軍の原爆が落とされた。間一髪で難を逃れたが、爆心地から約5キロ東にある広島県府中町の工場は操業停止に追い込まれた。
現在の西区横川地区にあった田島倉造商店も焼失した。マツダ車のエンジン部品などを造っている広島アルミニウム工業(西区)の原点である。
創業者の田島倉造さんは軽くて丈夫なアルミに着目。鋳造技術を磨き、羽釜の製造に乗り出していた。あの日、土橋町(現中区)で被爆。やけどを負い、2日後に亡くなった。ベトナムの戦地に赴いていた長男の忠雄さんに会いたい、との言葉を残して。
無水鍋が土台に
忠雄さんは46年10月に復員した後、会社の立て直しを決意する。ガスが普及する中で調理用の無水鍋を開発した。長男の田島文治会長(76)は「これがなければ今の会社はない」と言い切る。この鋳造技術が、後にエンジン部品を生み出す土台となる。
車の心臓部であるエンジン。戦前、主要部品を外国製に頼る企業が多い中、マツダの実質的な創業者である重次郎さんは自前の開発を貫いた。31年に発売し、車づくりの原点となった三輪トラックのエンジンも自社開発だった。
「会社が生き残ってこられたのは、技術を手の内にしてきた歴史があったからだ」。今、マツダのエンジン開発を手がける中井英二執行役員(63)は、先人たちの苦難と努力に思いをはせる。
技術者の熱意は先進的な製品も生んだ。その一つが「白いエンジン」。黒い鋳鉄製が一般的だった当時、鉄より軽いアルミ合金を部品に使った。東洋工業は白いエンジンを載せた軽乗用車キャロルを62年に発売し、人気を博した。
その数年前、広島アルミは自動車部品に本格参入した。鋳造技術が東洋工業の目に留まったのだ。乗用車の普及とともに、アルミ製エンジン部品の注文は増えていく。60年代、広島市内に3工場を一気に設けた。田島会長は「大きな転換期だった。大した度胸だと思う」と父の決断に感慨を抱く。
マツダが世界で唯一、ロータリーエンジン(RE)の量産に成功したのもこの頃だ。小型で高い出力を誇る「夢のエンジン」。RE搭載のコスモスポーツを67年に発売した。
RE向けの部品を今も生産している地場企業の一つが中央工業(東広島市)だ。38年、現在の中区舟入地区で創業。熱した鉄をたたいて強度を高める鍛造技術を戦前から磨いてきたが、原爆で操業中止を余儀なくされた。67年、現在の東広島市八本松町に鍛造工場を移した。
一番初めに相談
戦後に始めた自動車部品の生産は、重次郎さんとの縁がきっかけだったようだ。芳川淳社長(71)は「祖父と重次郎さんに親交があった」と明かす。祖父の快郎(よしろう)さんは、被爆して亡くなった娘婿の後を継ぎ、会社を経営。重次郎さんの故郷でもある現在の南区向洋地区に住んでいた。
郷土史研究会がまとめた重次郎さんの追悼集に、2人の絆を表す逸話が記されている。東洋工業が戦前に工場を建てる際、快郎さんは「一番初めに相談をうけたという程、お互い信頼しあっていました」(原文のまま)という。芳川社長の父で、先代社長の宏さんが書き残していた。
地場企業とともに戦後の復興や経済成長をけん引したマツダ。広島で生産した三輪トラックや乗用車は、エンジン音を響かせて物流や暮らしを支えた。内燃機関は毛籠(もろ)勝弘社長も「看板」と位置付ける技術。熱効率を高めて、環境性能と走りに磨きをかけ、度重なる経営危機を乗り越える原動力になった。
今のマツダ車に搭載している低燃費のスカイアクティブエンジンが生まれたのも、2008年のリーマン・ショック後の低迷期だった。当時、国内で逆風が吹いていたディーゼルエンジン(DE)の性能を高め、市場を切り開いた。中井執行役員は「本当にいいものを造らないとマツダのDEがなくなる。そんな緊張感があった」と振り返る。
自動車業界は100年に1度の変革期とされ、電動化の波が押し寄せている。「それでもエンジン車は必ず残る。そして何より重視するのは地域一体での車づくりだ」と中井執行役員は語る。その思いは、時代を超えて受け継がれていく。(口元惇矢)
(2025年7月11日朝刊掲載)
「看板技術」地域一体で
マツダ創業者つないだ絆
1945年8月6日。東洋工業(現マツダ)の社長、松田重次郎さんは70歳の誕生日を迎えた。午前8時15分。少し前まで滞在した広島市中心部に、米軍の原爆が落とされた。間一髪で難を逃れたが、爆心地から約5キロ東にある広島県府中町の工場は操業停止に追い込まれた。
現在の西区横川地区にあった田島倉造商店も焼失した。マツダ車のエンジン部品などを造っている広島アルミニウム工業(西区)の原点である。
創業者の田島倉造さんは軽くて丈夫なアルミに着目。鋳造技術を磨き、羽釜の製造に乗り出していた。あの日、土橋町(現中区)で被爆。やけどを負い、2日後に亡くなった。ベトナムの戦地に赴いていた長男の忠雄さんに会いたい、との言葉を残して。
無水鍋が土台に
忠雄さんは46年10月に復員した後、会社の立て直しを決意する。ガスが普及する中で調理用の無水鍋を開発した。長男の田島文治会長(76)は「これがなければ今の会社はない」と言い切る。この鋳造技術が、後にエンジン部品を生み出す土台となる。
車の心臓部であるエンジン。戦前、主要部品を外国製に頼る企業が多い中、マツダの実質的な創業者である重次郎さんは自前の開発を貫いた。31年に発売し、車づくりの原点となった三輪トラックのエンジンも自社開発だった。
「会社が生き残ってこられたのは、技術を手の内にしてきた歴史があったからだ」。今、マツダのエンジン開発を手がける中井英二執行役員(63)は、先人たちの苦難と努力に思いをはせる。
技術者の熱意は先進的な製品も生んだ。その一つが「白いエンジン」。黒い鋳鉄製が一般的だった当時、鉄より軽いアルミ合金を部品に使った。東洋工業は白いエンジンを載せた軽乗用車キャロルを62年に発売し、人気を博した。
その数年前、広島アルミは自動車部品に本格参入した。鋳造技術が東洋工業の目に留まったのだ。乗用車の普及とともに、アルミ製エンジン部品の注文は増えていく。60年代、広島市内に3工場を一気に設けた。田島会長は「大きな転換期だった。大した度胸だと思う」と父の決断に感慨を抱く。
マツダが世界で唯一、ロータリーエンジン(RE)の量産に成功したのもこの頃だ。小型で高い出力を誇る「夢のエンジン」。RE搭載のコスモスポーツを67年に発売した。
RE向けの部品を今も生産している地場企業の一つが中央工業(東広島市)だ。38年、現在の中区舟入地区で創業。熱した鉄をたたいて強度を高める鍛造技術を戦前から磨いてきたが、原爆で操業中止を余儀なくされた。67年、現在の東広島市八本松町に鍛造工場を移した。
一番初めに相談
戦後に始めた自動車部品の生産は、重次郎さんとの縁がきっかけだったようだ。芳川淳社長(71)は「祖父と重次郎さんに親交があった」と明かす。祖父の快郎(よしろう)さんは、被爆して亡くなった娘婿の後を継ぎ、会社を経営。重次郎さんの故郷でもある現在の南区向洋地区に住んでいた。
郷土史研究会がまとめた重次郎さんの追悼集に、2人の絆を表す逸話が記されている。東洋工業が戦前に工場を建てる際、快郎さんは「一番初めに相談をうけたという程、お互い信頼しあっていました」(原文のまま)という。芳川社長の父で、先代社長の宏さんが書き残していた。
地場企業とともに戦後の復興や経済成長をけん引したマツダ。広島で生産した三輪トラックや乗用車は、エンジン音を響かせて物流や暮らしを支えた。内燃機関は毛籠(もろ)勝弘社長も「看板」と位置付ける技術。熱効率を高めて、環境性能と走りに磨きをかけ、度重なる経営危機を乗り越える原動力になった。
今のマツダ車に搭載している低燃費のスカイアクティブエンジンが生まれたのも、2008年のリーマン・ショック後の低迷期だった。当時、国内で逆風が吹いていたディーゼルエンジン(DE)の性能を高め、市場を切り開いた。中井執行役員は「本当にいいものを造らないとマツダのDEがなくなる。そんな緊張感があった」と振り返る。
自動車業界は100年に1度の変革期とされ、電動化の波が押し寄せている。「それでもエンジン車は必ず残る。そして何より重視するのは地域一体での車づくりだ」と中井執行役員は語る。その思いは、時代を超えて受け継がれていく。(口元惇矢)
(2025年7月11日朝刊掲載)