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連載・特集

原爆記録資料の重要性共有 国際シンポ「未来への記憶の遺産」詳報

 広島市立大広島平和研究所と中国新聞社、長崎大核兵器廃絶研究センター(RECNA)主催の国際シンポジウム「未来への記憶の遺産―原爆資料をどう継承するか」が19日、広島市中区の広島国際会議場であった。日本被団協のノーベル平和賞受賞により被爆者運動が改めて注目される中、記録資料の保存、継承について関係者が議論し、約170人が来場した。

基調講演

NPO法人「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」資料庫担当 栗原淑江さん

被団協の足跡 発信強めたい

 ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会は2011年、被爆者の残り時間が少なくなる中、これ以上遅れれば取り返しがつかないとの危機感から発足した。広島、長崎に原爆資料館はあるが、全国組織としての日本被団協の運動について掌握できているとは言えない。その足跡を残すのが、私たち独自の役割である。

 収集資料の中でとりわけ貴重なのは被団協の運動史料だ。被爆者自らによる原爆とのたたかいの記録でもある。その代表的なものが、1985年の「原爆被害者調査」の資料になる。原爆被害への国家補償を拒む国の「受忍」政策に対し、原爆被害は人間に受忍できるものなのかを事実で明らかにしようと1万3千人の証言と統計を積み上げた。

 また、全国討議でつくりあげた84年の「原爆被害者の基本要求」は、その策定の過程を示す資料群がほぼ全て保管されている。核兵器を「絶対悪」「反人間的」と断じ、米日両政府の責任のとり方を明確に示した。

 被団協の長い歴史の中でも、これほどの議論や検討を重ねて作られた文書はない。これらに基づいた主張が、80年代の欧州への代表団派遣などを通じて国際社会に粘り強く訴えられた。長年の運動が、核兵器の使用や威嚇を禁じる核兵器禁止条約として結実した。

 貴重な史料を生かすため、大学と連携した企画展示やオンライン・ミュージアムでの資料公開を進めている。しかし、場所や人員の制約から資料の一般公開には現時点で至っていない。

 被爆者の残した史資料を、核の時代を生きる全ての人たちの記憶遺産にするため、継承する会が抱えている課題は大きい。恒常的に支える専門的人材の確保、資料の保管、閲覧、展示ができる場所、そしてそれを支える資金が必要だ。

 各地に、小さくても「ノーモア・ヒバクシャ」の継承の拠点を築くよう呼びかけている。それぞれの地域で所蔵する資料の共有を図っていこうと考えている。デジタルアーカイブの充実と国際的な発信力を強めていく必要もある。このシンポを機に、被爆地の施設や研究機関との連携も深めたい。

くりはら・よしえ
 1947年東京都生まれ。一橋大在学中から被爆者調査に関わる。同大社会調査室の助手を経て、80~91年に日本被団協事務局員を務めた。2011年から現職。

報告

原爆資料館学芸係長 落葉裕信さん

初代館長の調査 実相伝える原点

 被爆者や関係者から原爆資料館(広島市中区)に寄せられる資料の中には大規模なものがある。特別コレクションとして、一部をデータベースで閲覧できる取り組みを進めている。その一つが、初代館長の長岡省吾氏の資料だ。被爆資料や調査記録など約1万2千点に及ぶ。

 長岡氏は市内の焼け跡に通い、熱線を受けて表面が泡状になった瓦や、高熱で溶けた皿の塊などを集めた。人に笑われても「後日、必ず大切なものになるはずだ」との信念を持っていた。被害実態の解明にも力を注ぎ、市内の6千を超す墓石や建物に残る影を調査。原爆のさく裂高度や爆心地を導き出し、後の爆心地の再検討にも生かせるデータを保存した。

 開館間もない原爆資料館や前身の原爆記念館の様子がうかがえる資料も含まれる。記念館の展示室の写真には、爆心地から1キロ以内の廃虚を表すパノラマ模型が見える。この模型は原爆資料館の開館当初に移設され、展示された。その写真も残っている。

 原爆被害の調査内容を自らまとめ、知人たちの支援を受けて1954年に発行した冊子「HIROSHIMA」もある。刊行の言葉には「原爆の被害は今も止(や)むことなく続いている」などと書かれている。第五福竜丸事件が起きたことへの危機感がうかがえる。

 長岡氏の資料や姿勢は、被爆の実相を伝える原爆資料館の原点ともいえる。資料に向き合い、地道に調査・研究を続ける大切さを実感する。今なお核兵器が存在し国際的な緊張も高まる中、資料を残し伝える努力を続けたい。

おちば・ひろのぶ
 1977年広島市生まれ。2000年に広島平和文化センター学芸員。原爆資料館学芸課(現学芸展示課)で、同館本館のリニューアル(19年)などに携わった。

中国新聞社 水川恭輔編集委員

写真や手記 核使用の悲惨を刻む

 日本側が撮った広島の原爆記録写真は、核兵器使用がもたらす人間的悲惨が刻まれている。被爆した市民のほか、軍や報道の関係者、研究者や調査に同行した写真家たちが撮影した。2023年、広島市と五つの報道機関は国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」の登録を目指して1532点と動画2点を共同申請し、24年には申請資料を公開するウェブサイトを開設した。

 24年8月に始めた企画「ヒロシマ ドキュメント」は、申請資料を中心に、1945年末までの写真を時系列に沿って掲載した。被爆直後の負傷者や街の壊滅に加え、けがは目立たない人もやがて急性放射線障害で相次ぎ命を奪われた実態を浮き彫りにしようとした。

 写真が持つ意味はほかの資料とつなぐことでより深く読み取ることができる。取材班は写真に写る被爆者の手記や、写る場所に関係する犠牲者の遺影も掘り起こした。

 同じ企画では、さまざまな文書資料を取材して被爆者運動の歩みをたどった。広島には、日本被団協の初代事務局長の藤居平一さんが残した文書をはじめ、被団協の結成前夜や草創期の貴重な資料が現存している。

 被爆者個人が残した資料の保存・活用も重要だ。被爆者運動や証言活動を長年続け、24年に亡くなった池田精子さんの遺族を取材すると証言原稿を受け継いでいた。21年に死去した岡田恵美子さんの遺品は市民が整理し、海外首脳に被爆地訪問を求めた手紙などが残る。

 「原爆資料」を被爆者の戦後の思いや活動を伝える文書なども含めて幅広く捉え、どう残していくかを考えるべきだ。

みずかわ・きょうすけ
 1982年岡山県生まれ。2007年に中国新聞社入社。被爆75年企画「ヒロシマの空白」、被爆80年企画「ヒロシマ ドキュメント」などを担当。

長崎大核兵器廃絶研究センター特定准教授・客員研究員 山口響さん

長崎での取り組み 研究者が主導

 長崎の原爆関連の資料保存は、広島に比べて著しく遅れている。長崎市や長崎県に公文書館や文書館はなく、長崎大原爆後障害医療研究所(長崎市)の所蔵する資料も医学系に限定されている。

 民間での系統的な取り組みも不十分だった。1960年代後半から被爆証言の記録運動が進んだが、資料保存を中心とした活動ではなかった。

 このような状況を踏まえ、私を含めた研究者6人がこの5年ほど、資料を発掘し、保存する取り組みをしている。中でも長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の資料に力を入れている。

 目録を作り、重要な書類は電子データ化している。82年の国連軍縮特別総会で「ノーモアヒバクシャ」などと訴えた山口仙二さん(2013年に82歳で死去)が読み上げたと思われる原稿も発見された。

 会計資料を見ると、長崎被災協が運営していた食堂と土産物を売る「被爆者の店」の収入が重要な資金源であり、活動を下支えしていたことが分かる。被爆者運動の歴史であまり注目されてこなかった点だ。

 被爆者を巡る状況や家庭内での不和など生活上での相談を聞き取った資料も重要だ。一方でそこに記された個人情報の扱い方が課題になる。

 今は研究者グループとして資料の発掘や収集、整理をしているだけだ。予算の関係で資料の酸化を防ぐ処理などはできず、所蔵する団体が外部からの公開要求に十分応えるのは限界がある。最終的には自治体や国の役割が重要になってくる。被爆者が減る中で、被爆者援護を巡る予算を資料保存のために活用するべきだ。

やまぐち・ひびき
 1976年長崎県生まれ。一橋大大学院社会学研究科博士課程修了。市民団体「長崎の証言の会」で被爆証言誌の編集長を務める。専門は長崎の戦後史など。

ビデオメッセージ

ノーベル賞委員会 ヨルゲン・フリードネス委員長

被爆者の声 将来の守り手に

 ノーベル賞委員会は昨年、日本被団協にノーベル平和賞を贈った。核兵器のない世界の実現に向けた努力と、核戦争がもたらす人道的影響について、証言を重ね続けてきた献身に対する授賞だった。

 被爆者の声は、核兵器が抑止力ではなく大量殺害の道具だと世界に想起させる「道徳的なコンパス」だ。核による威嚇が公然と行われ「核のタブー」が揺らぎかねない今、原爆資料を収集し保存する営みはグローバルな重要性を帯びている。

 広島が地域として刻む記憶は地球規模の責務になっている。皆さんはその記憶の将来の守り手として、たいまつを受け継いでいってほしい。

(2025年7月28日朝刊掲載)

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