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被爆80年託す想い 「ごめんね、逃げて」 国民学校の教え子思う

 この秋、103歳の誕生日を迎える。息子3人を育て上げ、孫が8人。先月、15人目のひ孫も生まれた。広島市安佐南区の梶山郁枝さんは「幸せな人生を過ごしてきました」とほほ笑む。好奇心旺盛な性格。育児が一段落してからは、夫と海外旅行を重ねた。自宅に数十冊のアルバムが並ぶ。

 その中に赤い表紙の1冊がある。自身が赤ちゃんの頃の写真からページをめくると、1942年に神崎国民学校(現中区の神崎小)の子どもたちと撮ったクラス写真に行き着く。慣れない記念撮影だからか、どの子も緊張の面持ち。「小さくてね。本当にかわいかった」。1年生から2年間、担任を受け持った。

 各地の空襲が激化する中、梶山さんは44年春、河内村(現佐伯区)の両親の元に呼び戻された。教師は辞めざるを得なかった。45年8月6日からは動員されていた工場で原爆被害者の救護を担い、多くの死を目の当たりにした。

 神崎国民学校は爆心地から約1・2キロ。児童や教職員約150人が犠牲になった。あの子たちもその中にいたかもしれない。そう思うと、申し訳なさがこみ上げる。「ごめんね、逃げて」(馬上稔子)

(2025年7月27日朝刊掲載)

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