被爆80年託す想い 梶山郁枝さん 原爆「造ったらいけんよ」 102歳 救護で見続けた死
25年7月27日
客間のテーブルには大小の折り鶴が積まれていた。広島市安佐南区の梶山郁枝さん(102)は「癖でねえ」と笑ってみせる。お菓子の包みやチラシが手元にあると、折らずにはいられない。その原点は、80年前にある。
1944年、教員として勤めていた神崎国民学校(現中区の神崎小)を離れ、実家に戻った。河内村(現佐伯区)では、女子挺身(ていしん)隊として、防毒マスクの部品を作る工場に動員された。45年8月6日も工場の外を掃除中、上空に軍用機を目撃。突然、光が走り、倒れ込んだ。
広島方面は真っ暗だった。「幕を下ろしたようでした」。しばらくすると雨が降り出し、白いシャツを黒く染めた。やがて、けが人が押し寄せてきた。誰かが言った。「広島は全滅だ」
それからは連日、工場に横たわる負傷者の看病に追われた。とはいえ、けがに油を塗るくらいのことしかできない。じきに髪が抜け、鼻血が止まらなくなる人が出てきた。「そうなると、大抵は亡くなって…」。何もできない自分がもどかしかった。救護活動は、終戦後もしばらく続いた。
46年に入り、別の国民学校の教員だった夫と結婚した。夫は原爆投下直後、市街地へ入ったらしい。だが、詳しいことを語らなかった。それは梶山さんも同じだ。3人の息子にも、聞かれれば答える程度。「嫌な記憶だから。あまり言いたくなかったんです」。被爆者健康手帳を取ったのは半世紀余り後だ。
かつての教え子たちも苦しんだのだろうか。工場でみとった人たちのように。いや、何も分からないうちに命を絶たれたかもしれない。疎開先で被爆を免れても親を奪われ、苦難の戦後を強いられた子もいるだろう。「私は大きなけがもせず、家族にも恵まれた。自分が被爆者と思いたくない気持ちもありました」と打ち明ける。
三男の卓己さん(72)=安佐北区=は、そんな母の心情がずっと気になっていた。父が先立ち、もう20年余り。実家に通い、1人暮らしを支えている。今なお時折、自作の和歌をつぶやく母の声を耳にしていた。「夏日照り 今日はこの人 明日はあの人 髪は抜け 鼻血止まらず」
ことし、新聞社が被爆者アンケートを実施すると知り、卓己さんは回答用紙を取り寄せることにした。「孫やひ孫たちのためにも、母の体験を残したかったんです」。自ら聞き取り、代筆した。
大正から令和まで、四つの時代を生きてきた母は言う。「地球の人間同士、けんかしてどうするんかね。原爆みたいなものを二度と造ったらいけんよ」。その言葉には重みがあった。今年の8月6日も教え子たちを思い、手を合わせるのだろう。卓己さんも、同じ祈りをささげるつもりだ。(馬上稔子)
(2025年7月27日朝刊掲載)
1944年、教員として勤めていた神崎国民学校(現中区の神崎小)を離れ、実家に戻った。河内村(現佐伯区)では、女子挺身(ていしん)隊として、防毒マスクの部品を作る工場に動員された。45年8月6日も工場の外を掃除中、上空に軍用機を目撃。突然、光が走り、倒れ込んだ。
広島方面は真っ暗だった。「幕を下ろしたようでした」。しばらくすると雨が降り出し、白いシャツを黒く染めた。やがて、けが人が押し寄せてきた。誰かが言った。「広島は全滅だ」
それからは連日、工場に横たわる負傷者の看病に追われた。とはいえ、けがに油を塗るくらいのことしかできない。じきに髪が抜け、鼻血が止まらなくなる人が出てきた。「そうなると、大抵は亡くなって…」。何もできない自分がもどかしかった。救護活動は、終戦後もしばらく続いた。
46年に入り、別の国民学校の教員だった夫と結婚した。夫は原爆投下直後、市街地へ入ったらしい。だが、詳しいことを語らなかった。それは梶山さんも同じだ。3人の息子にも、聞かれれば答える程度。「嫌な記憶だから。あまり言いたくなかったんです」。被爆者健康手帳を取ったのは半世紀余り後だ。
かつての教え子たちも苦しんだのだろうか。工場でみとった人たちのように。いや、何も分からないうちに命を絶たれたかもしれない。疎開先で被爆を免れても親を奪われ、苦難の戦後を強いられた子もいるだろう。「私は大きなけがもせず、家族にも恵まれた。自分が被爆者と思いたくない気持ちもありました」と打ち明ける。
三男の卓己さん(72)=安佐北区=は、そんな母の心情がずっと気になっていた。父が先立ち、もう20年余り。実家に通い、1人暮らしを支えている。今なお時折、自作の和歌をつぶやく母の声を耳にしていた。「夏日照り 今日はこの人 明日はあの人 髪は抜け 鼻血止まらず」
ことし、新聞社が被爆者アンケートを実施すると知り、卓己さんは回答用紙を取り寄せることにした。「孫やひ孫たちのためにも、母の体験を残したかったんです」。自ら聞き取り、代筆した。
大正から令和まで、四つの時代を生きてきた母は言う。「地球の人間同士、けんかしてどうするんかね。原爆みたいなものを二度と造ったらいけんよ」。その言葉には重みがあった。今年の8月6日も教え子たちを思い、手を合わせるのだろう。卓己さんも、同じ祈りをささげるつもりだ。(馬上稔子)
(2025年7月27日朝刊掲載)