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[ヒロシマドキュメント 1946年] 7月26日 囲碁棋士追悼 打ち初め

 1946年7月26日。広島県廿日市町(現廿日市市)の蓮教寺で、原爆で亡くなった囲碁棋士たちを供養する打ち初めがあった。原爆投下時に広島で第3期本因坊戦の対局に臨んでいた島根県高津村(現益田市)出身の岩本薫棋士(99年に97歳で死去)と、橋本宇太郎本因坊(94年に87歳で死去)たちが集った。

 岩本さんは同日の日記に、被爆からの「一周忌」を前に、「原子爆弾で物故された支部役員の追悼」のため法要を営み、「リレー式連碁」を打ったと書き残す。

 その1年前、岩本さんが橋本さんに挑んだ第3期本因坊戦は45年7月24日に始まった。会場に予定していた日本棋院が東京大空襲で全焼。広島県高田村(現江田島市)出身の瀬越憲作名誉九段(72年に83歳で死去)が広島へ誘致した。

 広島市中心部の支部長の邸宅で1局目を終えた段階で、警察幹部が「広島市内は空襲の恐れがあり危険」と忠告。8月4日からの2局目は五日市町(現佐伯区)の吉見園に会場を移した。

 6日は盤を囲み、対局を再開する間際に閃光(せんこう)が走った。「強烈な光線で爆風が起りガラスなど飛んだ」(岩本さんの日記)。「マグネシウムをたいたみたいに、対局室が真っ白になった」(72年刊の橋本さん著書「囲碁専業五十年」)。2人は片付けの後、中断を挟みながら対局を続けた。

 ただ、支部の棋士や役員たちも犠牲になったと分かる。瀬越さんの「囲碁一路」(56年刊)によれば、「火傷をした素裸の人が往来をぞろぞろ逃げて来る」状況で、「もはや碁の手合どころではない」として解散となった。自身も中学生だった息子を奪われた。

 本因坊戦は年内に再開し、東京や千葉などで打ち継がれた。供養の打ち初めに続く形で46年8月に高野山で決戦があり、岩本さんが勝って本因坊を獲得する。後の九段は「原爆下の対局」から生き延びた者の使命として、囲碁の海外普及などにも尽力していく。(山本真帆)

(2025年7月26日朝刊掲載)

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