緑地帯 青来有一 祖父が語らなかった広島・長崎④
25年7月29日
三菱重工業が、江波地区で広島造船所の操業を開始したのは昭和19(1944)年3月。同時に観音地区では「広島機械製作所」の操業も始めている。
祖父が同じ年の8月に長崎造船所から広島造船所へ転勤したのは人員体制の充実だったろう。
職種は「電気溶接工」と黄ばんだ源泉徴収票にあった。
戦時下における軍需最優先の体制がつくられる中、広島と長崎の結びつきは強くなり、人の行き来も多くなったはずだ。
行き来には鉄道の利用が多かっただろう。広島と長崎で二度、直接被爆をした人の多くは、広島で被爆の翌日、避難列車に乗った人々だ。
長崎造船所から広島造船所に出張で来ていた船舶設計技師で、二重被爆者の山口彊(つとむ)さんは、7日の午後に己斐駅を出発した避難列車に乗っている。8日に長崎に到着、9日にふたたび被爆した。(稲塚秀孝著「二重被爆」より)
設計技師と電気溶接工と職種は違っても、同じ広島造船所で働いた祖父も避難列車に乗った可能性がないわけではない。
ただ、山口さんは3カ月の出張で広島に来て、ちょうど8月7日に長崎に帰る予定だった。広島造船所に転勤していた祖父が同じように移動できただろうか。それに9月22日に祖父は「観音南寮」にいたらしく、長崎で二回目の被爆をして、もう一度、わざわざ広島に帰ったことになる。(作家=長崎市)
(2025年7月29日朝刊掲載)
祖父が同じ年の8月に長崎造船所から広島造船所へ転勤したのは人員体制の充実だったろう。
職種は「電気溶接工」と黄ばんだ源泉徴収票にあった。
戦時下における軍需最優先の体制がつくられる中、広島と長崎の結びつきは強くなり、人の行き来も多くなったはずだ。
行き来には鉄道の利用が多かっただろう。広島と長崎で二度、直接被爆をした人の多くは、広島で被爆の翌日、避難列車に乗った人々だ。
長崎造船所から広島造船所に出張で来ていた船舶設計技師で、二重被爆者の山口彊(つとむ)さんは、7日の午後に己斐駅を出発した避難列車に乗っている。8日に長崎に到着、9日にふたたび被爆した。(稲塚秀孝著「二重被爆」より)
設計技師と電気溶接工と職種は違っても、同じ広島造船所で働いた祖父も避難列車に乗った可能性がないわけではない。
ただ、山口さんは3カ月の出張で広島に来て、ちょうど8月7日に長崎に帰る予定だった。広島造船所に転勤していた祖父が同じように移動できただろうか。それに9月22日に祖父は「観音南寮」にいたらしく、長崎で二回目の被爆をして、もう一度、わざわざ広島に帰ったことになる。(作家=長崎市)
(2025年7月29日朝刊掲載)