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連載・特集

緑地帯 青来有一 祖父が語らなかった広島・長崎⑤

 昭和20年8月、広島と長崎で被爆したとあいまいに伝えられてきた祖父が、実際にはどんな足取りをたどったのか、結局はわからない。

 ただ、祖父が広島に原爆が投下される一年前、「広島造船所」に転勤になり、被爆後の昭和20年9月28日に妻と娘が身を寄せていたらしい、長崎の島原半島にある西有家町に帰省したことが、二枚の黄ばんだ「旅行証明書」から推測はできる。

 祖父の口からわずかでも当時の話を聞いていたらと、祖父が亡くなって半世紀以上が過ぎた今になって悔やまれる。祖父が被爆者手帳を持っていたかさえ知らない。情報開示請求して被爆者手帳を確認してみるしかないかもしれない。

 祖父とは私が小学生の頃から中学校3年生の時に亡くなるまで5、6年はいっしょに暮らしたが、祖父はほんとうになにも話さなかった。あのひとはいったいだれだったのか、そんなミステリアスな気分にもなる。

 当時、父と母と息子ふたりの4人家族に、父方の祖父と母方の祖母の6人がひとつ屋根の下で暮らしていた。まだ父が家を建てる前に住んでいた借家で古びた木造の家だった。

 6畳と10畳の日本間と板張りの納戸があり、台所と風呂場があった。夜は10畳の仏間に家族6人で眠った。

 家族の団らんの時にも耳が遠い祖父は黙っていることが多く、大声で話しかけるとにこやかにうなずくだけだった。(作家=長崎市)

(2025年7月30日朝刊掲載)

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