[ヒロシマドキュメント 1946年] 7月 20歳の詩人悼む遺稿集
25年7月30日
1946年7月。20歳で原爆の犠牲になった詩人目崎一三さんの作品が、遺稿集としてまとまった。その詩才を惜しみ、同級生だった河合正美さん(2017年に92歳で死去)が自ら出版した。
最初のページに載せた句は「とよむ瀬に 君のゑまひの 白く燃ゆ」。一緒に三段峡を訪れた際の思い出の句だったという。ほかに俳句や短歌、日記、友人に宛てた手紙などを収録。岬柴火(さいか)の名前で活動した、15~20歳の感性をそのまま伝えた。46、47年に100部ずつ刷り関係者に配った。
目崎さんは広島県神辺町(現福山市)出身。旧制福山誠之館中(現誠之館高)から広島高(現広島大)に進んだが、学徒動員を経て入隊した。中国軍管区歩兵第一補充隊(中国第104部隊)に配属。45年8月6日、広島市内で被爆し、搬送先の広島第一陸軍病院戸坂分院(現東区)で12日に亡くなった。死亡証明書によると頭を負傷し、手にもやけどを負った。
中学、高校で同級生だった河合さんは高知県で終戦を迎えた。遺稿集の後書きで目崎さんの在りし日を「自分の周囲から芸術的な美しさを希求して、純粋に永遠の子供のやうに歌ひ上げてゐた」と振り返る。「生き残った私の彼に対する鎮魂は、その遺稿の整理しかなかった」と決意。実家を訪ねて遺品のノートなどを探し、収めた。
入営を控えた44年12月に記した日記もある。「これをかいた当の目崎一三といふ人間は元気に戦場で戦つてゐるのでせうか、それとも永遠に帰らない人たちの中に入つてゐるのでせうか」
おいの包孝(かねたか)さん(67)=福山市=は戦後も同級生たちが実家に来ていた様子を記憶する。「戦時中でも希望を持ち、青春を謳歌(おうか)していたと思う。生きていたら表現活動の続きをしていたはず」。直筆ノートの一部を今も受け継ぐ。03年には、河合さんを含む級友たちの手によって再刊される。(山本真帆)
(2025年7月30日朝刊掲載)
最初のページに載せた句は「とよむ瀬に 君のゑまひの 白く燃ゆ」。一緒に三段峡を訪れた際の思い出の句だったという。ほかに俳句や短歌、日記、友人に宛てた手紙などを収録。岬柴火(さいか)の名前で活動した、15~20歳の感性をそのまま伝えた。46、47年に100部ずつ刷り関係者に配った。
目崎さんは広島県神辺町(現福山市)出身。旧制福山誠之館中(現誠之館高)から広島高(現広島大)に進んだが、学徒動員を経て入隊した。中国軍管区歩兵第一補充隊(中国第104部隊)に配属。45年8月6日、広島市内で被爆し、搬送先の広島第一陸軍病院戸坂分院(現東区)で12日に亡くなった。死亡証明書によると頭を負傷し、手にもやけどを負った。
中学、高校で同級生だった河合さんは高知県で終戦を迎えた。遺稿集の後書きで目崎さんの在りし日を「自分の周囲から芸術的な美しさを希求して、純粋に永遠の子供のやうに歌ひ上げてゐた」と振り返る。「生き残った私の彼に対する鎮魂は、その遺稿の整理しかなかった」と決意。実家を訪ねて遺品のノートなどを探し、収めた。
入営を控えた44年12月に記した日記もある。「これをかいた当の目崎一三といふ人間は元気に戦場で戦つてゐるのでせうか、それとも永遠に帰らない人たちの中に入つてゐるのでせうか」
おいの包孝(かねたか)さん(67)=福山市=は戦後も同級生たちが実家に来ていた様子を記憶する。「戦時中でも希望を持ち、青春を謳歌(おうか)していたと思う。生きていたら表現活動の続きをしていたはず」。直筆ノートの一部を今も受け継ぐ。03年には、河合さんを含む級友たちの手によって再刊される。(山本真帆)
(2025年7月30日朝刊掲載)