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被爆80年託す想い 浅川晴恵さん ナガサキ 広島で向き合い 核廃絶 諦めたら終わり

 廿日市市の浅川晴恵さん(89)は広島に暮らし、60年ほどになる。その前は、もう一つの被爆地にいた。「原爆と向き合うようになったのは、こちらに来てからです」と明かす。長崎で原爆に遭った8月9日は長年、別の意味を持っていた。「私には『原爆の日』というより、戦死した父が『帰ってきた日』でしかありませんでした」

 長崎市で生まれ、母を早くに病気で亡くした。父は戦地へ。母の墓前で追いかけっこをしたのが最後の思い出となった。1945年に戦死公報が届く。日本軍がインド北東部攻略を図った「インパール作戦」で、44年夏に餓死したらしい。遺骨の引き渡し日が45年8月9日と決まり、祖父母の元で浅川さんはひたすら待った。「お骨でもいい。抱きしめたかった」

 その日、自宅は朝から騒がしかった。近くの住民たちが集まり、葬儀の準備を急いでいた。早めの昼を済ませようとしていた午前11時2分、約4・1キロ北の上空で米軍が投下した原爆がさく裂。仏間に並べられた座布団が吹き飛び、目の前から消えた。

 町の警防団長だった祖父は「まちが大変らしい」と家を飛び出していった。その後、顔や体を焼かれた人が次々に逃げてきた。座敷に倒れ込んだ人も。怖くて、遠巻きに見守るほかなかった。

 大混乱の中でも気になっていた父の遺骨は、本当に戻ってきた。火の勢いに押された祖父が引き返してくる途中、安置してあった市の防空壕(ごう)で見つけた。国民学校4年生の浅川さんにとっては目の前の惨事より、父の死の方が重かった。「自分が一番世の中で不幸だと思っていました」

 「原爆」は戦後も身近にあった。近所に犠牲者がいた。急に入院し、そのまま戻ってこなかった級友もいた。それでも8月9日が巡り来るたび、父を思った。

 転機は20代後半。夫の転勤で息子2人と共に広島へ。通い始めた教会で勧められるままに長崎での体験をつづった。会報に載った後、広島の被爆者や平和団体に関わるようになった。

 「怒りの広島、祈りの長崎」。両被爆地は、よくそう形容された。「私の受け止めですが…」。浅川さんも違いを感じたという。古里には、自らの体験を口にして原爆投下を声高に批判するのがはばかられるような空気があった。一方、広島の運動は激しい怒りがにじんでいた。感化されたのか、自身の原爆被害を見つめるようになった。

 思えば祖父母は被爆後に家で横になることが増え、病院と縁が切れなかった。それでも身を削るように働き、高校まで出してくれた。被爆者健康手帳の存在を知らず、医療費が家計を圧迫した時期も長い。「祖父母を助けられなかった。私が原爆と向き合わず、学びもしなかったから」。浅川さんは悔いを口にする。

 被爆と向き合うことは自らを、ひいては社会を救うこと―。広島の地で、そう思うようになった。「何度も何度も体験を語りつづけないと」「(核兵器廃絶は)あきらめたら終りだ」…。今回、新聞社のアンケートにも熱い思いをつづり、こう結んだ。「ささやかながら前向きに、『被爆』とたたかっています」(下高充生)

(2025年7月31日朝刊掲載)

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