『論』 戦後80年 原爆と日本映画 新藤監督の願い 引き継ごう
25年8月1日
■特別論説委員 岩崎誠
戦後80年の今、原爆や核兵器を扱った映画を指折り数えると相当な数になる。人類を破滅させかねない大量破壊兵器の脅威、核被害の悲惨さと被爆者たちの苦しみ…。世界の映画界が重要なテーマとしてきたのは確かだ。日本の「原爆映画」はどのように生まれ、何を訴えてきたのか。今から何ができるか。広島出身で原水爆を告発した新藤兼人監督(1912~2012年)の作品を軸に考える。
日本も負けていられない。昨年の米アカデミー賞で7冠の映画「オッペンハイマー」を見て、そんな思いに駆られた。原爆開発のマンハッタン計画に携わった物理学者の苦悩や原爆投下を前にした核実験に喜ぶ人たちをつぶさに描く。原爆の惨禍をほぼスルーしたことに批判も出た。ならば思う。きのこ雲の下で何が起きたかを被爆国から映画で伝えられないか、と。
過去の原爆映画を振り返ると新藤監督の「原爆の子」が頭に浮かぶ。連合国の占領を脱した直後の52年に広島で撮影され、その夏に封切られた。独立プロの近代映画協会を立ち上げた40歳の監督は古里の被爆地で1カ月半のロケを敢行する。
市民が無償で協力
広島の少年少女から募った同名手記集が原作。原爆で生き残り、瀬戸内の島に暮らす女性が数年ぶりに広島へ。幼稚園の先生時代の教え子たちを訪ね、癒えぬ苦しみに接する。新藤監督が力を込めた映画の撮影を巡る逸話を取材したことがある。
主演の乙羽信子さんは宝塚歌劇出身のスターで、専属契約する大映の反対を振り切ってはせ参じた。撮影に加わった子どもは約200人。予算は通常の映画の10分の1ほどで、多くの市民や企業、団体が撮影場所の確保、人員や資材の提供に無償で協力した。がれきが残る街や建設中の平和記念公園も映し込む作品は復興史の記録映像でもあろう。
監督はシナリオを改訂し、被爆者の生身の思いを生かした。乙羽さんの半生記によれば毎日のように被爆者との会合に出た。あの一瞬に「街は、人は、動物は、植物はどう変化したのか」を聞き取り、映画で何を訴えるか夜通し話し合ったそうだ。ロケ隊が泊まり込んだ旅館の娘さんの腕に被爆時に刺さったガラス片が残っていた。彼女が監督にふと漏らした言葉が、そっくり主役のせりふとなる。「いつまでも残しときたいの。8月6日を忘れんようにね」
「原爆の子」は全国でヒットし、映画界で原爆の悲劇が描かれる契機となる。後障害をステレオタイプに捉えた映画もあるが、被爆者の苦悩に迫る良心的な作品も少なくなかった。邦画が冬の時代となっても流れは続き、今村昌平監督の「黒い雨」(89年)や黒木和雄監督の「父と暮せば」(04年)などが世に出た。
海外では核兵器の脅威を分かっているのかと首をひねる映画もある。メッセージの強い作品はまだいい。架空の核戦争を描く米映画「博士の異常な愛情」(64年)は米司令官の妄想がきっかけで核攻撃の応酬に至り、人類滅亡が迫るというブラックユーモアを感じる。ただ、あの「インディ・ジョーンズ」シリーズの一作には仰天した。主人公がネバダ核実験場で効果を測定する無人の街に迷い込んで核爆発に遭い、冷蔵庫に閉じこもって難を逃れるのだ。
新藤監督の幻の企画に思いをはせてみる。「第五福竜丸」「さくら隊散る」なども撮った巨匠の心残りが「原爆投下の1秒、2秒、3秒の間に何が起こったのか」を実写で世界に見てもらう映画の構想だ。
東京の近代映画協会で、監督の次男で社長の新藤次郎さん(76)に会った。「ヒロシマ」と題されたシナリオの第1稿を見せてもらう。後の原爆ドーム、中島本町や新天地の繁華街、路面電車、百貨店、広島城などがどう破壊されたか。焼かれ、爆風に飛ばされた人間がどう殺されたのか。監督は20年余り前に構想を明らかにして広島市に持ちかけた。20億円と試算した製作費がネックとなって実現しなかったが、大規模なオープンセットも想定したという。
惨禍をより正確に
新藤社長は振り返る。「どの監督もやりたくてもその瞬間は描写できなかった。新藤は相当な覚悟でシナリオを書いたと思う」。残酷な場面をどう表現するか。今ならCGやVFX(視覚効果)を交えることになろうし、商業映画としてどう公開するのかも問われる。難しさを伴うため「この映画を作る資格があるのは被爆地広島しかない」というのがプロデューサーとしての実感だ。
映画人の良心は途切れない。この8月からは長崎出身の松本准平監督(40)が救護活動に当たった看護学生を描いた「長崎―閃光(せんこう)の影で―」が全国公開される。今後も映像作家たちが新藤監督のシナリオも念頭に最新技術を駆使して原爆の惨禍をより正確に作品化し、これが核戦争だと世界に示す日が来ないものか。
被爆地と一つになった伝説の「原爆の子」は時代を超えて原点であり続けよう。この映画に感動し、原爆や戦争をテーマにした映画祭をたった一人で毎年、東京で営む映像ディレクターがいる。広島出身の御手洗志帆さん(37)だ。この2~4日に池袋で14回目を開く。栄枯盛衰の映画界が核廃絶と不戦の誓いを銀幕に託した熱量を忘れないでいたい。
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名作の数々 継承に活用を
福山市在住の社会学者で、著書「原爆映画の社会学」(新曜社)がある摂南大現代社会学部特任教授、好井裕明さん(69)に原水爆をテーマにした映画の意味を語ってもらった。
被爆体験を直接聞くのが難しくなっている。戦後の映画やドキュメンタリーが継承に活用されないのはもったいない。
中でも新藤兼人監督のエネルギーはすごかった。もうからないのに正面切って原爆をテーマにし続けたのは彼だけだ。原爆映画を語る上で原点である「原爆の子」はもう一度評価してほしい。被害そのものは直接的に描かなかったが、目に見えないところで人を傷つける原爆を映画という芸術の中で描いた。同じ原作で日教組が全面協力し、新藤作品の翌年に公開された「ひろしま」も別の意味で原点といえる。1万2千人の撮影協力者の数を冒頭に出し、被爆の惨状とはこれだというものをロケとセットで視覚化した。
その後、被爆者の悲惨な生きざまや後遺症、差別などを描く映画が次々と公開され、大手も参入した。純愛映画では白血病が不幸の象徴となり、「愛と死の記録」(66年)は最愛の男性を失った怒りを吉永小百合さんが表現した。週刊誌の記者が広島の被爆者を取材する「その夜は忘れない」(62年)では「原爆1号」と呼ばれた吉川清さんを実写で登場させ、被爆者とはどんな存在かを語らせている。原爆の被害を単に「ネタ」として捉えただけではなかった。
しかし原水爆は映画の中で次第にファンタジー化する。反戦・反核の象徴だった「ゴジラ」(54年)の後に続く特撮作品群は特にそうだ。娯楽映画から被爆の問題のリアルさがどんどん消えていった。その中でも中学教師が自宅アパートで原爆を造る「太陽を盗んだ男」(79年)は核の恐ろしさを強く意識した良質な娯楽作だ。監督の長谷川和彦さんは胎内被爆者である。
海外では戦後、ほとんどが原水爆の実態を分からないまま映画にした。米国の「戦慄(せんりつ)! プルトニウム人間」(57年)は人間が放射能で巨大化する荒唐無稽な話で広島と長崎はバックグラウンドに全くなっていない。
要は娯楽であれ何であれ、原水爆の本質をどれだけ理解しているかだ。今は核兵器を考える文化がなえてしまった。映像作家も勉強不足だ。米国で「オッペンハイマー」がヒットした。日本からも映像作品で発信する気構えが、今からでも欲しい。そのためにも、作りっ放しだった過去の映画、とりわけ被爆者の語りを映した昭和40年代までの名作を見直したい。
よしい・ひろあき
大阪市生まれ。東京大大学院博士課程単位取得退学。筑波大、日本大教授を経て2023年現職。近著に「くまさんのこだわりシネマ社会学」(晃洋書房)。
(2025年8月1日朝刊掲載)
戦後80年の今、原爆や核兵器を扱った映画を指折り数えると相当な数になる。人類を破滅させかねない大量破壊兵器の脅威、核被害の悲惨さと被爆者たちの苦しみ…。世界の映画界が重要なテーマとしてきたのは確かだ。日本の「原爆映画」はどのように生まれ、何を訴えてきたのか。今から何ができるか。広島出身で原水爆を告発した新藤兼人監督(1912~2012年)の作品を軸に考える。
日本も負けていられない。昨年の米アカデミー賞で7冠の映画「オッペンハイマー」を見て、そんな思いに駆られた。原爆開発のマンハッタン計画に携わった物理学者の苦悩や原爆投下を前にした核実験に喜ぶ人たちをつぶさに描く。原爆の惨禍をほぼスルーしたことに批判も出た。ならば思う。きのこ雲の下で何が起きたかを被爆国から映画で伝えられないか、と。
過去の原爆映画を振り返ると新藤監督の「原爆の子」が頭に浮かぶ。連合国の占領を脱した直後の52年に広島で撮影され、その夏に封切られた。独立プロの近代映画協会を立ち上げた40歳の監督は古里の被爆地で1カ月半のロケを敢行する。
市民が無償で協力
広島の少年少女から募った同名手記集が原作。原爆で生き残り、瀬戸内の島に暮らす女性が数年ぶりに広島へ。幼稚園の先生時代の教え子たちを訪ね、癒えぬ苦しみに接する。新藤監督が力を込めた映画の撮影を巡る逸話を取材したことがある。
主演の乙羽信子さんは宝塚歌劇出身のスターで、専属契約する大映の反対を振り切ってはせ参じた。撮影に加わった子どもは約200人。予算は通常の映画の10分の1ほどで、多くの市民や企業、団体が撮影場所の確保、人員や資材の提供に無償で協力した。がれきが残る街や建設中の平和記念公園も映し込む作品は復興史の記録映像でもあろう。
監督はシナリオを改訂し、被爆者の生身の思いを生かした。乙羽さんの半生記によれば毎日のように被爆者との会合に出た。あの一瞬に「街は、人は、動物は、植物はどう変化したのか」を聞き取り、映画で何を訴えるか夜通し話し合ったそうだ。ロケ隊が泊まり込んだ旅館の娘さんの腕に被爆時に刺さったガラス片が残っていた。彼女が監督にふと漏らした言葉が、そっくり主役のせりふとなる。「いつまでも残しときたいの。8月6日を忘れんようにね」
「原爆の子」は全国でヒットし、映画界で原爆の悲劇が描かれる契機となる。後障害をステレオタイプに捉えた映画もあるが、被爆者の苦悩に迫る良心的な作品も少なくなかった。邦画が冬の時代となっても流れは続き、今村昌平監督の「黒い雨」(89年)や黒木和雄監督の「父と暮せば」(04年)などが世に出た。
海外では核兵器の脅威を分かっているのかと首をひねる映画もある。メッセージの強い作品はまだいい。架空の核戦争を描く米映画「博士の異常な愛情」(64年)は米司令官の妄想がきっかけで核攻撃の応酬に至り、人類滅亡が迫るというブラックユーモアを感じる。ただ、あの「インディ・ジョーンズ」シリーズの一作には仰天した。主人公がネバダ核実験場で効果を測定する無人の街に迷い込んで核爆発に遭い、冷蔵庫に閉じこもって難を逃れるのだ。
新藤監督の幻の企画に思いをはせてみる。「第五福竜丸」「さくら隊散る」なども撮った巨匠の心残りが「原爆投下の1秒、2秒、3秒の間に何が起こったのか」を実写で世界に見てもらう映画の構想だ。
東京の近代映画協会で、監督の次男で社長の新藤次郎さん(76)に会った。「ヒロシマ」と題されたシナリオの第1稿を見せてもらう。後の原爆ドーム、中島本町や新天地の繁華街、路面電車、百貨店、広島城などがどう破壊されたか。焼かれ、爆風に飛ばされた人間がどう殺されたのか。監督は20年余り前に構想を明らかにして広島市に持ちかけた。20億円と試算した製作費がネックとなって実現しなかったが、大規模なオープンセットも想定したという。
惨禍をより正確に
新藤社長は振り返る。「どの監督もやりたくてもその瞬間は描写できなかった。新藤は相当な覚悟でシナリオを書いたと思う」。残酷な場面をどう表現するか。今ならCGやVFX(視覚効果)を交えることになろうし、商業映画としてどう公開するのかも問われる。難しさを伴うため「この映画を作る資格があるのは被爆地広島しかない」というのがプロデューサーとしての実感だ。
映画人の良心は途切れない。この8月からは長崎出身の松本准平監督(40)が救護活動に当たった看護学生を描いた「長崎―閃光(せんこう)の影で―」が全国公開される。今後も映像作家たちが新藤監督のシナリオも念頭に最新技術を駆使して原爆の惨禍をより正確に作品化し、これが核戦争だと世界に示す日が来ないものか。
被爆地と一つになった伝説の「原爆の子」は時代を超えて原点であり続けよう。この映画に感動し、原爆や戦争をテーマにした映画祭をたった一人で毎年、東京で営む映像ディレクターがいる。広島出身の御手洗志帆さん(37)だ。この2~4日に池袋で14回目を開く。栄枯盛衰の映画界が核廃絶と不戦の誓いを銀幕に託した熱量を忘れないでいたい。
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社会学者・好井裕明さんに聞く
名作の数々 継承に活用を
福山市在住の社会学者で、著書「原爆映画の社会学」(新曜社)がある摂南大現代社会学部特任教授、好井裕明さん(69)に原水爆をテーマにした映画の意味を語ってもらった。
被爆体験を直接聞くのが難しくなっている。戦後の映画やドキュメンタリーが継承に活用されないのはもったいない。
中でも新藤兼人監督のエネルギーはすごかった。もうからないのに正面切って原爆をテーマにし続けたのは彼だけだ。原爆映画を語る上で原点である「原爆の子」はもう一度評価してほしい。被害そのものは直接的に描かなかったが、目に見えないところで人を傷つける原爆を映画という芸術の中で描いた。同じ原作で日教組が全面協力し、新藤作品の翌年に公開された「ひろしま」も別の意味で原点といえる。1万2千人の撮影協力者の数を冒頭に出し、被爆の惨状とはこれだというものをロケとセットで視覚化した。
その後、被爆者の悲惨な生きざまや後遺症、差別などを描く映画が次々と公開され、大手も参入した。純愛映画では白血病が不幸の象徴となり、「愛と死の記録」(66年)は最愛の男性を失った怒りを吉永小百合さんが表現した。週刊誌の記者が広島の被爆者を取材する「その夜は忘れない」(62年)では「原爆1号」と呼ばれた吉川清さんを実写で登場させ、被爆者とはどんな存在かを語らせている。原爆の被害を単に「ネタ」として捉えただけではなかった。
しかし原水爆は映画の中で次第にファンタジー化する。反戦・反核の象徴だった「ゴジラ」(54年)の後に続く特撮作品群は特にそうだ。娯楽映画から被爆の問題のリアルさがどんどん消えていった。その中でも中学教師が自宅アパートで原爆を造る「太陽を盗んだ男」(79年)は核の恐ろしさを強く意識した良質な娯楽作だ。監督の長谷川和彦さんは胎内被爆者である。
海外では戦後、ほとんどが原水爆の実態を分からないまま映画にした。米国の「戦慄(せんりつ)! プルトニウム人間」(57年)は人間が放射能で巨大化する荒唐無稽な話で広島と長崎はバックグラウンドに全くなっていない。
要は娯楽であれ何であれ、原水爆の本質をどれだけ理解しているかだ。今は核兵器を考える文化がなえてしまった。映像作家も勉強不足だ。米国で「オッペンハイマー」がヒットした。日本からも映像作品で発信する気構えが、今からでも欲しい。そのためにも、作りっ放しだった過去の映画、とりわけ被爆者の語りを映した昭和40年代までの名作を見直したい。
よしい・ひろあき
大阪市生まれ。東京大大学院博士課程単位取得退学。筑波大、日本大教授を経て2023年現職。近著に「くまさんのこだわりシネマ社会学」(晃洋書房)。
(2025年8月1日朝刊掲載)