[被爆80年] 89歳 半生明かす決意 「原爆の子」に作文寄せた広島の河田さん
25年8月1日
原爆で父・姉失い「こんなもんが世の中にあっちゃいけん」
原爆で父と姉を失った広島市佐伯区の河田洋二さん(89)が今夏、自らの体験を中国新聞の取材に初めて証言した。被爆6年後に出版された手記集「原爆の子」に作文が掲載されて以降、「良い思い出ではない」と口を閉ざしてきた。作文を知った知人の後押しで、半生を明かす決意をした。(下高充生)
教育熱心で優しかった父と海水浴に行った思い出が残る。宿題を代わりにやってくれた姉の姿を思い浮かべ、「学校に行くのが楽でした」…。区内で取材に応じた河田さんは、ほほ笑みながら振り返った。
1945年8月6日、河田さんは学童疎開先の広島県福木村(現東区)にいた。爆心地から約900メートルの広島市八丁堀(現中区)にあった県食糧営団で働いていた父義邦さん=当時(49)=と、約1・5キロの広島文理科大(現広島大)に勤めていた九つ上の姉澄江さんが犠牲になった。前日にそろって会いに来てくれたのが最後となった。
河田さんは中学の教師の勧めで「原爆の子」に寄せた作文に当時の心境をこうつづる。「田舎から僕の兄さんが迎えにきてくれた。その時、はじめて父と姉が亡くなったことを知らされた。(中略)涙がとめどもなくこぼれおちてきた」
戦後は母フミ子さんが着物を縫ったり茶道を教えたりして生計を立てた。河田さんも中学生の頃から新聞配達に励み、焼け跡の鉄くずや銅を拾って現金に換えた。作文には「時にはつらいと思う事もあるが、そんな時には、つい父のことが頭に浮んできて、父が今生きていたらなあ、と思うことがある」とも刻む。
広島大を卒業し、就職。原爆について話す機会はなく「他の人に自慢げに言う話でもない」と語ってこなかった。転機は今年3月。勤務先の退職者会でつながりのあった前橋功さん(78)=佐伯区=が作文について伝え聞いたといい、「体験を多くの人に知ってもらうべきでは」と取材を提案。河田さんも被爆80年を一つの節目と捉え、応じることにしたという。
取材の終盤には、家族を奪った原爆への憤りを語った。「一発の原爆で私の家族が経験したような結果になる。こんなもんが世の中にあっちゃいけんですよ」
(2025年8月1日朝刊掲載)