×

ニュース

[被爆80年] 時を超え「遺影は語る」 旧中島本町 被爆死の2人 長姉の孫が写真寄せる

 31日に公開した「遺影は語る」の特設サイトに、四半世紀前の新聞連載になかった2人の写真が加わった。当時取材を受けた遺族の姉たちが紙面への掲載を断ったが、代替わりして孫が2人の原爆死と向き合う中で「生きた証しとして知ってほしい」と遺影を寄せた。(藤村潤平)

 2人は、平和記念公園(広島市中区)になった旧中島本町で暮らしていた亀田八重子さん(14)、昌樹さん(12)=いずれも当時=のきょうだい。動員先の工場が休みだった八重子さんは自宅で遺骨が見つかり、建物疎開作業に動員された昌樹さんは父親が市内の病院の玄関前で息絶えているのを確認した。

 1999年の「遺影は語る」の取材には、当時存命だった姉や妹が応じた。亡くなった2人の被爆状況を父が残した手記なども踏まえ証言する一方で、提供を求められた顔写真については「載せるとかわいそうな気がする」と応じなかった。

 時は流れ、長姉の孫になる会社員の土屋浩さん(54)=東区=は4年前、家族の被爆体験をまとめていた。その際に「遺影は語る」の紙面を見つけ、2人の写真が載っていないのに気付いた。

 その経緯を今回詳しく知り、土屋さんは「不思議に思っていましたが、納得しました」と話した。祖母は2009年に83歳で亡くなるまで、2人のことを語らなかった。死後、愛用の財布を開けると丁寧に折り畳まれた家族写真があった。両親やきょうだいに囲まれ、ほほ笑む八重子さんと昌樹さんが写っていた。祖母の秘めた思いに触れたような気がした。

 原爆でどんな人が亡くなったか。それを知る人もいなくなっていく―。土屋さんは実感する。遺影を寄せたことを、亡き祖母たちがどう思うかは分からない。「遺影が語りかけてくる言葉も時を経て変わるのかもしれません」。今の心境をそんなふうに言い表した。80年前の2人の死が少しでもリアルに、鮮明に伝わればと願っている。

(2025年8月1日朝刊掲載)

年別アーカイブ