被爆80年託す想い 梅澤妙子さん 43歳でがん 胎内被爆意識 反核の声 歌で広げたい
25年8月1日
胎内被爆者の梅澤妙子さん(79)=東京都大田区=は1945年の冬、岩国市に生まれた。兄が4人。年の離れた末娘は家族の誰からもかわいがられた。「母は何でも応援してくれました」。小、中学では、合唱や演劇に打ち込んだ。
思えば、母の藤島マサ子さん自身、強い向学心の持ち主だった。看護師だが、本当は医師になりたかったらしい。日米開戦後は一時、兄たちを父に任せ、台湾に従軍した。戦後も暇さえあれば辞書を開き、英単語を学ぶような人だった。
フランス語もできた方がいいと、広島市にあった鈴峯女子高への進学を勧めてくれた。なのに入学後、母は倒れた。体に紫斑が広がり、歯の治療中に出血が止まらなくなった。診断は急性骨髄性白血病。広島赤十字病院(当時、現中区)に入院し、病魔と懸命に闘ってくれたが、62年9月に力尽きた。55歳だった。
母を苦しめたのは原爆では―。入市被爆したのは知っていたから、闘病中も疑ってはいた。でも、悲しむ間はなかった。梅澤さんは治療費がかさみ、家計が回らなくなっていると察していた。翌春、高校を中退。兄たちの影響でジャズを聴いて育った経験を生かし、高級クラブや米軍基地で歌い始めた。放送局のオーディションに合格し、テレビ番組も持った。
結婚を機に31歳で上京する前、母の体験を詳しく聞かせてくれたのは15歳上の兄だった。国鉄に勤めていて尾長町(現東区)で被爆。母が8月7日に広島市内へ捜しに入った。8日に再会し、無事を確認したが、大勢の負傷者を放っておけなかったらしい。救護所の加勢に入り、いったん岩国に戻った後も再び赴いた。妊娠中期。梅澤さんがおなかにいた。
兄に被爆者健康手帳の取得も世話され、内心ショックだった。「ああ、私も被爆者なのか、嫌だなと」。差別が根強い時代。弱みを抱えてしまった気がして、手帳を使おうとも思わなかった。
上京後は広告や編集の仕事に携わり、広告制作会社を起こした。そのさなか、がんを患い、胃の4分の3を切除した。当時43歳。がん病棟でも誰より若い。母の時と同様、原爆の影響を疑わずにはいられなかった。「本当に、おぞましい兵器ですよね」
会社を畳み、ふさいでいた40代後半に音楽を再開。心救われた。ジャズのレッスンを受け、六本木や渋谷のライブハウスに立った。CDも出した。新型コロナウイルス禍で中断したが、夫に背を押され、また人前に立ち始めている。何か発信せねば―。そんな思いも芽生えてきた。「この年になったからでしょう。被爆国から核兵器反対の声をもっと広げられないか、と」
胎内被爆者であることは、広島出身の仲間にしか告げていない。知れば周りは驚くだろう。「私が歌うことで誰かの意識が少しでも変わればいい」。母ならきっと、応援してくれる。(編集委員・田中美千子)
(2025年8月1日朝刊掲載)
思えば、母の藤島マサ子さん自身、強い向学心の持ち主だった。看護師だが、本当は医師になりたかったらしい。日米開戦後は一時、兄たちを父に任せ、台湾に従軍した。戦後も暇さえあれば辞書を開き、英単語を学ぶような人だった。
フランス語もできた方がいいと、広島市にあった鈴峯女子高への進学を勧めてくれた。なのに入学後、母は倒れた。体に紫斑が広がり、歯の治療中に出血が止まらなくなった。診断は急性骨髄性白血病。広島赤十字病院(当時、現中区)に入院し、病魔と懸命に闘ってくれたが、62年9月に力尽きた。55歳だった。
母を苦しめたのは原爆では―。入市被爆したのは知っていたから、闘病中も疑ってはいた。でも、悲しむ間はなかった。梅澤さんは治療費がかさみ、家計が回らなくなっていると察していた。翌春、高校を中退。兄たちの影響でジャズを聴いて育った経験を生かし、高級クラブや米軍基地で歌い始めた。放送局のオーディションに合格し、テレビ番組も持った。
結婚を機に31歳で上京する前、母の体験を詳しく聞かせてくれたのは15歳上の兄だった。国鉄に勤めていて尾長町(現東区)で被爆。母が8月7日に広島市内へ捜しに入った。8日に再会し、無事を確認したが、大勢の負傷者を放っておけなかったらしい。救護所の加勢に入り、いったん岩国に戻った後も再び赴いた。妊娠中期。梅澤さんがおなかにいた。
兄に被爆者健康手帳の取得も世話され、内心ショックだった。「ああ、私も被爆者なのか、嫌だなと」。差別が根強い時代。弱みを抱えてしまった気がして、手帳を使おうとも思わなかった。
上京後は広告や編集の仕事に携わり、広告制作会社を起こした。そのさなか、がんを患い、胃の4分の3を切除した。当時43歳。がん病棟でも誰より若い。母の時と同様、原爆の影響を疑わずにはいられなかった。「本当に、おぞましい兵器ですよね」
会社を畳み、ふさいでいた40代後半に音楽を再開。心救われた。ジャズのレッスンを受け、六本木や渋谷のライブハウスに立った。CDも出した。新型コロナウイルス禍で中断したが、夫に背を押され、また人前に立ち始めている。何か発信せねば―。そんな思いも芽生えてきた。「この年になったからでしょう。被爆国から核兵器反対の声をもっと広げられないか、と」
胎内被爆者であることは、広島出身の仲間にしか告げていない。知れば周りは驚くだろう。「私が歌うことで誰かの意識が少しでも変わればいい」。母ならきっと、応援してくれる。(編集委員・田中美千子)
(2025年8月1日朝刊掲載)