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被爆80年託す想い 片山曻さん 「正直もの 陥れられ」死刑 兄の遺書に「歴史学べ」

出頭「戦犯」になった兄 「日本が為したことの故に死ぬ」

 先の大戦はかけがえのない家族2人に死をもたらした。広島で被爆した片山曻(のぼる)さん(93)=東京都日野市=は「戦争なんかすべきではない。人殺しに過ぎないんだ」と断じる。終戦3年後の1948年2月。原爆放射線にさらされた父が白血病で逝った。同じ頃、長兄の訃報が届く。元海軍将校。BC級戦犯として、南太平洋上の島で銃殺された。

 その兄、日出雄さん愛用の聖書が残る。麻の糸がほつれ、染みの付いたブックカバーには、十字と「片山」の刺しゅう。寄贈を受けたルーテル学院大(東京都三鷹市)が、図書館に常設展示している。

 13歳上で、憧れの存在だった兄。旧制修道中から東京外国語学校(現東京外国語大)に進み、貿易や英語を学んだ。「周りの評判も良かった」と片山さん。卒業後に徴兵され、広島の陸軍第五師団から海軍へ志願。東京の軍令部で終戦を迎えた。戦後は広島に立ち寄り、焦土と化した古里も見た。

 従軍中に捕虜を処刑したとして、戦犯容疑をかけられたのは46年1月。上官は罪を逃れ、出頭した兄はたった4日間の裁判で死刑と決まった。信仰が厚く、執行されるまでの1年8カ月、収容所で布教に尽くした。「日本が戦時中為(な)したことの故に死ぬ」と書き残した。当時29歳。その人生の意味を、片山さんは考え続けている。(宮野史康)

 写真の兄は笑ったような目をしている。「優しかった」。片山曻(のぼる)さん(93)=東京都日野市=は懐かしむ。広島市で生まれ育ち、幼い頃、柔道場に付いて行った時のこと。受け身の稽古で投げられる兄日出雄さんを見て「殺される」と、近くにあった竹刀で先生をたたいた。「『曻、もう連れてこないぞ』、と兄に言われてね」。家族の笑い話になった。

 5人きょうだいだったが、やがて長兄の日出雄さんが応召。2番目の兄も学徒出陣し、家族の暮らしは次第に戦時色を深めていく。父清三郎さんは中国新聞社に勤務。元安橋西詰め(現中区)に写真館を構えていたが、肝臓を患って日米開戦前に廃業し、国防献金の記事を担当していた。

 1945年8月6日。段原国民学校(現南区の段原小)6年だった片山さんは、2階の教室にいた。本を読んでいたら突然、真っ白な閃光(せんこう)が走った。倒壊した校舎からはい出すと、きのこ雲が立ち上っていた。

 がれきの下には、まだ友人がいた。引っ張り出そうとしていると、火の手が上がり始める。炎の熱を感じ、逃げるしかなかった。「今も心の傷なんだ。助けてあげられなくてごめんなさい」。段原新町(現南区)の自宅を出ていた父とは翌7日に再会でき、「広島はもう、ないようになった」と聞かされた。新聞社は爆心地から約900メートル。全滅した街を目撃したようだった。

 この頃、日出雄さんは東京の軍令部にいた。「英語ができたから『原爆』と知っていただろう」と片山さん。戦後は呉市の戦後処理に携わり、家にも顔を見せた。一緒に焼け野原を歩いた時、母校・旧制修道中の変わり果てた姿を眺め、「ああ、懐かしいな」とだけつぶやいた。

 戦犯として訴追された46年1月は、東京で新婚生活を送っていた。今のインドネシア東部に従軍していた44年8月、上官の命令に逆らえず、捕虜となったオーストラリア兵を処刑したとされた。責任を一身に負わされたのだ。

 巣鴨プリズンに出頭。インドネシアの離島での裁判で即、死刑を宣告された。南太平洋の島の収容所に送られ、47年10月に無念の死を遂げる。

 48年2月には父が逝った。被爆後間もなく高熱や下血、脱毛に苦しんでいた。「一時は落ち着き、やっと助かったと思ったのに」(片山さん)

 前後して兄の訃報が届いた。ただ、残した日記が返され、最後の日々が見えてきたのはもっと後だ。「司令部の高級士官は皆うまく逃げて居ります。正直なものが陥れられた」。文面に悔しさがにじむ。それでも、残された人生を懸命に生きていた。収容所で聖書や英語の教室を開いた。英語を駆使し、仲間の減刑も訴えていた。

 「兄のような青年将校に罪を負わせる。軍部ではしょっちゅう、そういうことがあったんだ」。片山さんは憤る。ただ兄は新妻に遺書を残し、恨みを捨てるよう求めていた。「誰かが戦争の責任を取らないといけない。兄なりに、けじめをつけたんだろう」

 きょうだいに宛てた遺書もあった。歴史を勉強するように―。この言葉を片山さんは今も胸に刻み、全ての人にかみしめてほしいと願う。国際情勢を憂い、「もう後がない」と、自宅ベッドの上で取材に応じた。「人間が賢明な動物か、試されている。戦争反対だ」(宮野史康)

(2025年8月4日朝刊掲載)

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