『記憶を受け継ぐ』 箕牧智之さん―先人を思い被爆者運動
25年8月4日
箕牧智之(みまきとしゆき)さん(83)=広島県北広島町 先人を思い被爆者運動
焦土の街 母の手をぎゅっと握り歩いた
箕牧(みまき)智之さん(83)は広島県被団協の理事長として、国内外で被爆の惨禍(さんか)を語り、「核兵器のない世界」を訴(うった)えてきました。父を捜(さが)すため、3歳(さい)の時に母たちと広島市へ入った入市被爆者です。被爆者運動を築いた亡(な)き「先人」たちの遺志(いし)を継(つ)ぎ、活動の先頭に立っています。
1945年8月、箕牧さんは両親と弟の4人で、爆心地から約17キロの飯室(いむろ)村(現広島市安佐北区)で暮(く)らしていました。同年初めの一家の住まいは東京でしたが、3月の東京大空襲(だいくうしゅう)を機に、父の故郷(こきょう)がある広島へ移り住みました。
6日朝、自宅前(じたくまえ)で遊んでいた箕牧さんはピカッという光を感じました。午後になると、広島市の方から列をなした人々がぞろぞろと歩いてきます。髪(かみ)は乱(みだ)れ、服は裂(さ)けたり焼かれたりした「ボロボロになった人」でした。
箕牧さんの父は広島鉄道局で働き、可部(かべ)線の旧安芸(あき)飯室駅から広島市内へ通っていました。翌(よく)7日になっても帰らない父を捜すため8日、母と弟とトラックに乗せてもらって広島に向かいました。焦土(しょうど)と化した市街地では、母の手をぎゅっと握(にぎ)ってひたすら歩きました。
数日後、父は無事に帰ってきました。広島駅(現南区)近くで被爆しましたが、重傷(じゅうしょう)を免(まぬが)れたのでした。父はあの日見た光景や体験について、ほとんど語りませんでした。「多くの同僚(どうりょう)を亡(な)くし、苦しかったからだろう」。箕牧さんはそうおもんぱかります。箕牧さん自身は被爆の影響(えいきょう)なのか、子どもの頃(ころ)は体が弱く学校を4カ月ほど休んだこともありました。
働きながら定時制高校に通い、箕牧さんは会社員になりました。被爆者運動に力を入れるようになったのは2005年。町議やPTA会長を務めていた経験から、北広島町原爆被害者の会の会長を任されました。以来、県被団協の故坪井直(すなお)・前理事長たちと出会い、故森滝市郎・初代理事長たちの足跡(そくせき)にも触(ふ)れるようになりました。
初めての海外訪問(ほうもん)は10年、核拡散(かくさん)防止条約(NPT)再検討(さいけんとう)会議の開催(かいさい)地の米ニューヨークでした。核兵器のない世界を目指す各国の市民約1万人とともにデモ行進をし、現地の高校生に被爆証言をしました。「自らの体験を基に核なき世界を訴える被爆者の使命を果たしていきたい」との思いを強めました。
昨年は、被爆者運動の歴史に刻(きざ)まれる出来事がありました。箕牧さんが代表委員を務める全国組織の日本被団協がノーベル平和賞を受賞したのです。箕牧さんはノルウェー・オスロでの授賞式で賞状を受け取りました。「ずしりと重かった」。運動を切り開いてきた亡き先人を思い出し、果たしてきた役割(やくわり)を改めて感じました。
世界には今なお約1万2千発の核兵器があり、戦争は絶えません。こうした国際情勢への危機(きき)感を胸(むね)に、箕牧さんは若(わか)い世代に強く求めます。「核兵器をつくり、戦争を始めるのは国家ですが、犠牲(ぎせい)になるのは市民です。核兵器、戦争には絶対に反対してください」 (小林可奈)
私たち10代の感想
反戦へ 仲間づくり大切
被爆者運動を続ける箕牧さんの話を聞き、より多くの人に戦争や核兵器の恐(おそ)ろしさを知ってもらい、共に反対する仲間をつくることが大切だと思いました。仲間づくりのため、ジュニアライター活動で聞いた話や得た知識、思いを周囲の人に共有していきたいです。(中3小林真衣)
長い活動に苦労や努力
「ノーベル平和賞は先人たちのおかげ」という言葉から、長い活動の中での苦労や努力を感じました。「戦時中は生きるだけで精いっぱい」という言葉も心に響(ひび)きました。戦争や核兵器の使用を繰(く)り返(かえ)させないために何ができるかを改めて深く考えるきっかけになりました。(高2尾関夏彩)
箕牧さんは証言の中で父親の話をしてくれました。箕牧さんの父親はあの日、仕事中で偶然、地下にいたため助かりました。その後、原爆について語ることはほとんどなかったそうです。多くの同僚を亡くし、家に帰ってくるまでの道のりで様々な惨状を目にしたはずです。箕牧さんは、父親が話そうとしなかった理由について「生き残ったことへの負い目があったのではないか」と話していました。原爆によって、自分や家族が助かっても、心にも体にも一生傷を負いながら背負っていかねばならないのだと、改めて思い知らされました。
このように、自身の経験を語ることが難しい人の分まで被爆の実態を語り継ごうと努める箕牧さんは、使命感を抱いているように見えました。体調が万全ではない中で私たちの取材にも応じてくれた箕牧さんは、私たちに力強いメッセージも送ってくれました。「絶対に戦争に反対してください」。私たちも箕牧さんの姿を「すごい」と思って見ているだけではいけません。私は先日成人し、選挙権を持つようになりました。社会を変えていくのは一人一人の行動です。すべての人がそのことを自覚し、責任を持って世の中の課題を考えていく必要があると感じました。(高3藤原花凛)
箕牧さんは、戦争が繰り返される今の世の中に対して、「『理由は何だって良いから、戦争をやめなさい』と伝えたい」と話します。原爆の被害に遭っていない私たちの言葉は、箕牧さんら被爆者の言葉ほどの重みがあるかは分かりません。ただ、私たちには「戦争反対!」と訴える権利と義務に近い使命があると思います。一人の声では届かないかもしれませんが、皆で一緒に声を上げれば、きっと届くはずです。自分たちの未来を自分たちの手で守るためにも、私は行動し続けたいと思います。(高3森美涼)
僕は初めて箕牧さんの話を聞きました。まず驚いたことは、箕牧さんの元気さです。被爆者運動などの話から、年齢を感じさせないほどの熱量を感じました。1時間余りの話の内容はとても濃かったです。原爆投下前後の話も聞くことで、僕の今の生活と重ね合わせることもできました。
一番印象に残ったのは、「被爆者である祖母の話を聞いておいたほうがいいですか」という僕の質問に対し、箕牧さんが「絶対に聞いておいたほうがいい、紙とペンを忘れないようにして、記録することが大事」と答えてくれたことです。僕は、祖母から被爆体験を一度も聞いたことがありません。聞こうかどうか迷いもありましたが、箕牧さんの言葉に背中を押され、今度聞きに行こうと思っています。(高2川口悠真)
箕牧さんは米国の人たちに原爆の話をする時は「パールハーバーのことを謝罪します」と言って講演を始めるそうです。すると現地の人は「原爆のことを謝ります」と言って受け入れてくれるそうです。箕牧さんは、原爆投下の責任は、米国だけにあるのではなく、戦争を遂行した日本にもあると言っていました。戦争や原爆を世界に伝えていく時には、一方的に被害を語るのではなく、相手国の立場への視点も忘れてはいけないと感じました。広島で生まれ育った私たちは、戦争の話になると「ヒロシマ」だけにとらわれてしまいがちです。しかし、世界の人たちと相互理解を深め、平和を築いていくために、「ヒロシマ」以外の戦争被害も積極的に学び、多角的な視点から戦争や原爆を語ることが大切だと思いました。(高2山下裕子)
箕牧さんに米国への現在の感情について尋ねると、「米国は世界のリーダーであるからこそ、戦争を推し進めたり、加担したりするのではなく、世界を平和、安定へと導く役割を果たしてほしい」と言っていました。現在、イランとイスラエルの対立など、世界各地で争いが続発しています。このような国際情勢において、米国はその影響力を生かし、対話や協調を促進するための責任ある行動と冷静な外交的対応が求められていると感じました。(高1亀居翔成)
今回の取材では、ドイツのテレビ局も取材に来ていました。その取材を目の当たりにし、世界へヒロシマの発信が進んでいることも実感しました。
箕牧さんは私たち若者に「戦争に反対できるようになってほしい」と言っていました。パレスチナ自治区ガザの問題やロシアのウクライナ侵攻などの緊張した世界情勢による不安があるからこそ、私たちが戦争に反対する思いを強く持つ必要があると思いました。(高1川鍋岳)
箕牧さんの話を聞き、戦争についての発言がとても印象に残りました。箕牧さんは、戦争は殺すか、殺されるかの人殺しであると言っていました。戦争という一つの単語の裏側には亡くなった一人一人の人生があり、それらが奪われてしまうことを忘れてはいけないと思いました。犠牲者の命を忘れないためにも、私たちは被爆の実態や戦争の残酷さを取材したり、理解したりし、箕牧さんが言っていた「戦争反対」を訴え続ければならないと思いました。(高1行友悠葵)
箕牧さんは3歳の時に被爆したのに、記憶がとても鮮明であることに驚きました。両親の様子や、人が列をつくって歩いて来る姿が、幼かった箕牧さんの心にも残るほどのものだと思うと心苦しいです。また、「戦争は殺すか殺されるか」と語っていたことも、印象に残りました。戦争は国家が始めますが、攻撃をし、されるのは人です。私たちの命に関わるものであことを改めて感じました。(中3山下綾子)
日本被団協の代表委員でもある箕牧さんの話を直接聞くことができて良かったです。私たちの平和活動を後押ししてくれるような話でした。ノーベル平和賞を受賞した日本被団協の活動を、いろんな人に知ってもらい、平和について考えてほしいと思います。(中2小林菫)
箕牧さんの取材を通して、原爆を受けた日本だけが被害者ではないということを考えさせられました。
米国による原爆投下で、日本では多くの人が亡くなりました。一方で、箕牧さんの話から、原爆投下につながる歴史軸には、日本の真珠湾攻撃や南満州鉄道の線路爆破もあることも分かりました。このことから、僕は、日本が米国を責めるだけの立場に立てるわけではないと考えました。原爆は正当化されるべきではありませんが、日本も日本で反省すべきことがあります。
イスラエルとハマスの戦闘や、シリアやミャンマーの内戦などの背景にも、多様な考えや事情があり、一面的な視点では、状況をとらえることはできません。これらのことから、広く様々な視点から、社会を見て、解決に向けた策を練っていくことが大切だということが分かりました。(中2森本希承)
日本被団協の代表委員も務める箕牧さんの話を聞きました。被爆者としての体験だけでなく、戦争や平和についての深い考えを語ってくださり、とても心を動かされました。
特に印象に残ったのは、米国人に被爆証言をする前に箕牧さんが「日本が真珠湾を攻撃したこと」を謝罪してから話を始めたというエピソードです。被爆という大きな被害を受けた立場にありながらも、相手の苦しみや歴史に向き合い、対話をしようとする姿勢に深く感動しました。
また箕牧さんが最後に語った「戦争は国家が始めるが、犠牲になるのは国民」という言葉が強く心に残りました。戦争は、私たち一人ひとりの命に関わる問題だと改めて考えされました。
箕牧さんの話を聞いて、私は平和の大切さをより深く感じるようになりました。これからも戦争の記憶を風化させず、被爆者の声に耳を傾け、自分ができる平和への行動を考え続けていきたいです。(中1河原理央菜)
「今思えば、父にいろんなこと聞いとけばよかったなぁって思いますよ」
箕牧さんのお父さんは現在の広島駅近くで被爆。原爆投下直後の様子を見たにもかかわらず、多くを語らなかったそうです。箕牧さんのお母さんが毎年8月6日になると、あの日はこうだったと話しても、お父さんは口を固く閉ざしていたそうです。箕牧さんは「被爆体験はできる限り聞き、記録してほしい。亡くなってからじゃ遅いんだから」と繰り返していました。お父さんに聞いておけばよかったという後悔があってこその言葉だと思いました。
私はこれまで、「被爆者の話を聞ける最後の世代なんだから」と言われても、その深刻さを理解しきれていませんでした。しかし、今回の取材を通じて、その言葉の意味を実感することができました。被爆体験にしっかりと耳を傾け、一言一言を大切にしたいと感じました。
箕牧さんは、イスラエルがイランの核関連施設を攻撃したことに対して、「今までの私たちの頑張りが意味がなかったみたいに感じてしまう」と悔しがっていました。日本被団協がノーベル平和賞を受賞したことで、平和への関心が高まっている中での出来事です。「どうにかして平和を守り抜いてほしい」。箕牧さんからの強いメッセージです。二度と世界で核兵器が使われることがないよう、そして、安定した平和がつくられるよう、何をするべきか、私たちには考え続ける責任があるのではないでしょうか。(中1竹内香琳)
箕牧さんは被爆当時3歳で記憶がおぼろげなところもあるそうですが、私たちのために心を込めて被爆体験を語ってくれました。1945年8月6日の朝、箕牧さんは爆心地から離れた場所に住んでいたので被害が少なかったものの、ピカッと雷のような光に包まれたそうです。午後になると、広島市の方から被爆者たちがゾロゾロと列をなして歩いてきたそうです。そのお化けのような見た目から恐怖を覚えたことを「今でも忘れない」と言います。帰ってこない父を捜すため、箕牧さんは、母、そして当時1歳だった弟とともに、暑い市内を歩き、入市被爆をしました。数日後、父は無事に家に帰ってきましたが、亡くなるまで、原爆についてはほとんど話さなかったそうです。きっと、広島の悲惨なありさまを間近に見て、言葉にすることがつらかったのでしょう。私の胸も痛みました。戦争の被害は戦後の生活にも及びます。箕牧さん一家の戦後の生活は貧しく、苦労の連続でした。家計を支えるため、働きながら定時制高校に通ったそうです。
箕牧さんは、町議やPTA会長、保護司など地域社会を支える仕事に携わってきました。両親も参加していた被団協の活動にも加わり、核兵器禁止条約の交渉会議に合わせた渡米など海外でも核兵器廃絶を訴えてきたそうです。
日本被団協がノーベル平和賞に選ばれたときは耳を疑ったそうですが、被爆者の地道で懸命な活動が世界に認められたことを喜ばしく思ったそうです。私も、日本被団協のノーベル平和賞受賞を機に、戦争の悲惨さ、平和の大切さ、そして平和な世界を未来につなげようとする被爆者の思い、日本被団協の活動が世界に広がってほしい、と思いました。
被爆者の高齢化により、私たちは被爆者の声を聞ける最後の世代と言われています。箕牧さんが語っていたように、戦争は理由が何であれ人殺しであることには変わりなく、核兵器の使用や威嚇は、報復の連鎖につながるだけです。私たちは「戦争を始めるのは自分ではない」と他人事に思ってはいけないと思います。今も世界の各地では苦しんでいる人たちがたくさんいます。私たちの時代を平和にできるのは私たちしかいません。今までたくさんの人が築き上げてきた平和を私たちで守っていきたいです。(中1鶴田雛)
箕牧さんの話を聞いて、貧しい生活や放射線による病気の苦しみなど原爆投下時の様子が伝わり、胸がとても苦しかったです。
イスラエルとイランの間などで、今も絶えず争いが繰り返されていますが、もう二度とあのころの広島を繰り返させないため、平和の声を上げ続けたいです。(中1矢熊翔人)
◆孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801。
(2025年8月4日朝刊掲載)