被爆80年 伝承者の夏 <下> 底力 子どもたちに継ぐ
25年8月3日
東広島市原爆被爆資料保存推進協議会 細川文子さん(67)=東広島市西条町
被爆80年の原爆の日が近づいた7月中旬、東広島市原爆被爆資料保存推進協議会の細川文子さん(67)=西条町=は、八本松町の吉川小の平和学習に招かれた。児童たちに地元ゆかりの御堂義之さん(2024年に89歳で死去)の被爆証言を伝えた。「話していたら、胸がいっぱいになった」
胸に響いた証言
広島市南区出身の細川さんは両親が被爆者で、小さい頃から原爆の話題が身近だった。平和教育も浴びるように受け、子どもに携わる仕事に就いた。東広島市で保育士として働いていた12年、広島市が始めた被爆体験伝承者の養成事業に応募し、出会ったのが御堂さんだった。
あの日、9歳だった御堂さんは爆心地から1・5キロの広島市千田町(現中区)で被爆した。全身に大やけどを負った兄は1週間後、外出先で被爆した母もその年の10月に亡くなった。幼い頃に父を亡くし、他のきょうだいを頼ることもあまりできなかった。苦難の少年期を生き抜いた証言が、仕事で子どもと関わる細川さんの胸に響いた。
御堂さんはその後、広島大に進学し、神戸大の教員になった。定年を機に妻の古里の吉川に移り住み、被爆証言の活動に力を注いでいた。
細川さんは毎週のように御堂さんを訪ね、対話を重ねた。「御堂さんの証言には揺らぎのない底力があった。親しくなろうと必死だった」。やがて、御堂さんが役員を務める協議会の手伝いを頼まれるようになった。
昨年 突然の別れ
伝承者となってから、御堂さんが「何でも細川さんに聞きなさい。僕以上に知っているから」と話しているのを耳にした。「心を許してくださったんだなとうれしかった」と語る。そんな中で、昨年11月に突然の別れとなった。
御堂さんの遺志を引き継いだ細川さんは、小中学生が中区の平和記念公園を訪れて学ぶ「平和学習バス」や、東広島市原爆被爆資料展示室の企画展の運営に奔走する。中でも子どもに戦争の愚かさや平和の意義を伝える機会を大切にする。「子どもは感情が動くと変わる。やりがいは大きい」
今年の夏、吉川小の児童に語りかけた。「平和に向けた努力は面倒だったり、投げ出したくなったりする。でもそれを乗り越える力をつけてほしい。平和は誰かに与えられるものじゃない。自分でつかむものだよ」。御堂さんと話すうちにたどりついた答えでもある。(石井雄一)
(2025年8月3日朝刊掲載)