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「平和都市」の追求強化を 戦後80年 次代のヒロシマは 広島商工会議所元会頭 深山英樹さんに聞く

 広島商工会議所の会頭を9年務めた深山英樹さん(83)。サッカースタジアム構想など都心開発に経済界トップとして携わってきた一方、「ずっと葛藤を抱えていた」と述べる。被爆者でありながら、その体験や平和への思いを長年、胸中に押しとどめてきたからだ。戦後80年の夏に何を思うのか。今後、広島の街はどんな姿を目指すべきなのか。思いを聞いた。(編集委員・東海右佐衛門直柄、写真・高橋洋史)

 ―被爆時のことを教えてください。
 3歳でした。爆心地から約4キロの本浦町(現広島市南区)の自宅近くの畑に、祖父と母といました。すさまじい閃光(せんこう)を感じ、砂じんを上げた爆風が中心部から吹いてきました。畑のトウモロコシの茎がばたばたと倒れ、母がとっさに私の上に覆いかぶさってくれたことを覚えています。

 ―ご家族に被害は。
 14歳上の兄の義郎が亡くなりました。爆心地から約1キロの広島第二陸軍病院にいたそうです。兄はやけどで皮膚が真っ赤にただれ、顔の形も分からなくなっていた。痛みでのたうち回って…。しばらくして亡くなりました。

 ―その後の生活は。
 中学生の時に、病院で赤血球が基準値より少ないことが分かりました。周りでも、学校の先生が白血病で亡くなり「自分もいつか死ぬんだ」という恐怖がありました。その後は、広島瓦斯(現広島ガス)に入社し、高度成長期の中で懸命に仕事をしました。

 ―会社員時代や商議所会頭の時に、被爆体験を公にしてきたのでしょうか。
 被爆者であることを隠してはいませんでしたが、取り立てて表にもしてこなかった。会頭の時に県外の会合で福島第1原発事故が話題に上り、ある方が「福島はずっと被曝(ひばく)に苦しむが、広島の被爆は一瞬だ」と言った。ショックでした。今なお被爆者は後障害に苦しんでいるのに。ほかにも、いわれなき差別を感じたことがある。多くの人に会いながら葛藤を感じていました。被爆や平和のことを胸の中に押しとどめてきたから。周りがどう思うのか気にしていたのです。

 ―考えが変わったきっかけがあったのですか。
 2016年にオバマ米大統領(当時)が平和記念公園を訪れた時、演説を近くで聞きました。「人類は一つの家族」「理想を追い求めることに価値がある」という言葉を聞き、考えが変わりました。

 実は私、現役時代は「核抑止論者」だったんです。日本を守るために米国の「核の傘」が必要という考えだった。立場上、国の考えがちらついたり、無言の外圧を感じたりもしていたのだと思う。

 でも、核抑止の考えが正しいとなると結局、世界各国が全て核兵器を持つことで平和が保たれるとなる。それでいいのか。今は考えが変わりました。核兵器は廃絶されるべきで政府は核兵器禁止条約を批准するべきです。国に対して「このままでいいのか」と一石を投じたくなりました。

 ―戦後80年の原爆の日が近づきます。今後、被爆地はどのような姿を目指すべきなのでしょうか。
 広島は近年、大きく変わりました。JR広島駅もきれいになり、海外からの観光客も増えました。でも福岡などと比べると若者が少なく、活気が乏しい。平和を実感する場もあまりない。

 未来に向けた、希望のある平和についての発信力がまだ弱いのだと思います。国際平和文化都市である「広島らしさ」の追求が弱い。

 例えば世界各国の子どもたちが広島に集まって平和について語り合う場をつくるとか、市民が平和について考えてその実現に向けて働きかけるなどの取り組みを今後、地域全体で進めていかなければと思うのです。

ふかやま・ひでき
 1941年、広島市南区生まれ。広島大政経学部を卒業後、64年に広島ガス入社。専務などを経て、2001年6月から約9年、社長を務めた。その後、会長に就き、17年6月に退任。広島商工会議所会頭としては、サッカースタジアムの候補地を巡って関係者を調整し、建設に道筋をつけた。会頭の在任期間は10年12月~19年10月。

(2025年8月2日朝刊掲載)

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