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連載・特集

緑地帯 青来有一 祖父が語らなかった広島・長崎⑦

 祖父と孫の私にほんとうは血のつながりはない。父が5歳の時、祖母夫婦は養子縁組をしている。父にとって養母は、実父の妹、叔母にあたるひとだ。

 祖父母がどうして養子を迎えたのか、その理由らしき事実を、実家の御仏壇を引き継いだ6年前、過去帳に見いだしていた。

 祖父母には亡くなった実子がいた。生まれてわずか6カ月、昭和3(1928)年5月22日に亡くなっていた。その子の名は旧字で「學」と記されている。親の期待と願いがこめられた名だったのだろう。その後、ふたりは子どもには恵まれず、5年後、妻の兄の子ども(当時5歳の私の父)を養子に迎えたのだ。祖父からも父からも乳児で亡くなった「學」さんの話は聞いたことはない。わが家の歴史の闇に沈んだひとだ。

 十年後、養子縁組をした息子が16歳の昭和19年7月、祖父母は養女を新たに迎えている。私の叔母だが、当時1歳。驚いたのは祖父が46歳、祖母が43歳の時の養女で、私の父にとっては15歳年下の妹である。

 養女を迎えた1カ月後、祖父は広島造船所に転勤になり、祖母は1歳の養女の実家、島原半島の西有家の親類のもとに身を寄せたらしい。

 工業高校に通っていた父から戦時中、ひとり暮らしをした話は聞いていた。祖父は広島に転勤、祖母が乳児の養女と島原半島の西有家に行き、家族は戦争で離ればなれになったのだ。

 祖母と叔母が被爆者手帳を持たなかったわけもわかった。(作家=長崎市)

(2025年8月2日朝刊掲載)

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