[ヒロシマドキュメント 1946年] 8月 「純音楽茶房ムシカ」開店
25年8月2日
1946年8月。広島市の広島駅近くの猿猴橋町(現南区)に、「純音楽茶房ムシカ」がオープンした。「人々の心に潤いを」との思いで、クラシック音楽好きの店主梁川義雄さん(95年に79歳で死去)が始めた。
約20坪の店に、闇市で手に入れた蓄音機とレコード、ふぞろいの椅子を並べた。当初の飲み物は「大豆とチュウリップの花をいって、ズルチンで甘味をつけた1杯5円のいがらっぽいコーヒー」(62年8月5日付本紙)だった。
もとは同じ店で46年5月から洋食レストランを開いていた。文化人が多く利用し、「音楽喫茶をやっては、というアドバイスを受け入れたようです」と長男忠孝さん(82)=中区。店名はスペイン語などで音楽を意味する「musica」からとった。詩人の峠三吉さんや作家、音楽家志望の青年が訪れるようになる。
梁川さんは45年8月6日、働いていた大洲町(現南区)で閃光(せんこう)を浴びた。西観音町(現西区)の自宅に戻ると、「宝の一つであるレコード、電蓄はもう火が付いて燃えとりました」(原爆資料館収録の証言)。父は仕事先で犠牲に。妹は学徒動員されて遺骨も見つからなかった。
梁川さんはベートーベンの交響曲第5番の「運命」が好きだった。「被爆後多くの人たちが『運命』の中でどういう風にさまよっているか、自分自身も含めてこれから先どうなっていくだろうか。そういう運命を考えますと非常に力強い音楽」(同)と感じた。
ただ、46年の大みそかは、交響曲第9番を流す。店内に入りきらない人々がその音色に耳を澄ませて涙し、「第九伝説」として語り継がれることになる。
店は55年に胡町(現中区)に移ると、世代を超えて客たちが歌うコーラスタイムが人気を集め、「うたごえ喫茶」のはしりになる。梁川さんは喫茶での売り上げのほとんどをレコード代に費やした。忠孝さんが66年に2代目店主となり、一時閉店や移転を経て2000年に西蟹屋(南区)へ。「お客さんがメニュー表も作ってくれてね」。長年ファンとともに築いてきた店を20年に閉じた。(山本真帆)
(2025年8月2日朝刊掲載)
約20坪の店に、闇市で手に入れた蓄音機とレコード、ふぞろいの椅子を並べた。当初の飲み物は「大豆とチュウリップの花をいって、ズルチンで甘味をつけた1杯5円のいがらっぽいコーヒー」(62年8月5日付本紙)だった。
もとは同じ店で46年5月から洋食レストランを開いていた。文化人が多く利用し、「音楽喫茶をやっては、というアドバイスを受け入れたようです」と長男忠孝さん(82)=中区。店名はスペイン語などで音楽を意味する「musica」からとった。詩人の峠三吉さんや作家、音楽家志望の青年が訪れるようになる。
梁川さんは45年8月6日、働いていた大洲町(現南区)で閃光(せんこう)を浴びた。西観音町(現西区)の自宅に戻ると、「宝の一つであるレコード、電蓄はもう火が付いて燃えとりました」(原爆資料館収録の証言)。父は仕事先で犠牲に。妹は学徒動員されて遺骨も見つからなかった。
梁川さんはベートーベンの交響曲第5番の「運命」が好きだった。「被爆後多くの人たちが『運命』の中でどういう風にさまよっているか、自分自身も含めてこれから先どうなっていくだろうか。そういう運命を考えますと非常に力強い音楽」(同)と感じた。
ただ、46年の大みそかは、交響曲第9番を流す。店内に入りきらない人々がその音色に耳を澄ませて涙し、「第九伝説」として語り継がれることになる。
店は55年に胡町(現中区)に移ると、世代を超えて客たちが歌うコーラスタイムが人気を集め、「うたごえ喫茶」のはしりになる。梁川さんは喫茶での売り上げのほとんどをレコード代に費やした。忠孝さんが66年に2代目店主となり、一時閉店や移転を経て2000年に西蟹屋(南区)へ。「お客さんがメニュー表も作ってくれてね」。長年ファンとともに築いてきた店を20年に閉じた。(山本真帆)
(2025年8月2日朝刊掲載)