記憶継ぎ平和願う 8・6式典 都道府県遺族代表の思い
25年8月5日
米軍により人類史上初めて市民の頭上に原爆が落とされてから80年。広島市が6日に平和記念公園(中区)で営む平和記念式典に37都道府県から遺族代表が参加する。最高齢はあの日父を奪われた93歳、最年少は昨年に父を亡くした56歳。受け継いだ被爆の記憶と、核兵器も戦争もない平和な世界への思いを聞いた。
佐谷正恵(69)=北海道
母小清水光子、24年4月23日、95歳、老衰
広島女学院高女1年だった母は、崩れた学校の体育館の下敷きに。寛容で忍耐強い人だったが、8月6日が近づくと不安定になった。昨年他界し、最初で最後のつもりで式典に参列する。母が父と出会った地でもある広島を娘と巡りたい。
藤田和矩(79)=青森
母俊子、46年9月3日、21歳、心不全
母は白島九軒町(現中区)の自宅で被爆し、私を産んだ半年後に亡くなった。幼い頃は病弱で長く生きられないといわれた私だが、母がくれた命のおかげで今も元気。数年前からは証言活動も始めた。母の分も生きて平和の尊さを伝える。
木村仁紀(57)=宮城
祖父山縣貞臣、45年8月9日、42歳、被爆死
内科医だった祖父は往診に行く途中、堀川町(現中区)の自宅付近で被爆。「無念でならない」と言い残して亡くなったと、被爆者の母から聞いた。証言をできるのは県内で母1人になった。2世としてサポートし続けたい。
水谷羊一(77)=秋田
姉浦子、24年6月3日、78歳、老衰
広島文理科大(現広島大)の学生だった父の安否を確かめるため、原爆投下1週間後に広島に入った母のおなかに姉がいた。歌人だった父も被爆し、その悲惨さを伝える歌を残して、原爆症のため49歳で亡くなった。家族の体験を生きている限り伝えていきたい。
小松宏生(ひろみ)(91)=栃木
母米倉登喜栄、03年10月2日、93歳、心筋梗塞
母は白島町(現中区)の自宅にいた。倒壊したが、大きなけがをせずに抜け出せた。疎開先から私を連れ戻し、爆心地近くで父を一緒に捜したが見つからなかった。私が結婚できるか心配し「被爆したとは言わないように」と話していた。
坂下紀子(82)=埼玉
伯母隆杉京、98年9月13日、82歳、心不全
伯母は青果の仕入れ中に旧制広島二中(現観音高)付近で爆風に飛ばされた。私も中広町(現西区)の母の実家で被爆した。体験を風化させまいと、11年前に証言を始めた。家族や私の記憶、今年の式典で感じた思いを本に残したい。
隆杉渉(83)=千葉
弟敏之、13年8月6日、69歳、不明
弟は1歳、私は3歳の時に爆心地から800メートルの横堀町(現中区)の自宅で被爆。爆風でつぶれた家の下敷きになったが、一緒に住む祖母たちに救出された。弟は晩年、肌に赤黒い斑点が出ては消えを繰り返した。私は放射能の恐怖と常に向き合って生きている。
竹中清史(86)=東京
父靖一、86年12月19日、80歳、脳梗塞
陸軍船舶司令部(暁部隊)で備品の管理をしていた父は宇品町(現南区)で被爆した。地面に伏せて爆風を逃れた。私と母、姉、妹2人は翠町(同)の自宅にいて無事だった。当時の出来事を一つでも思い出し、東京の小中学生に伝える。
新宅友穂(70)=神奈川
父守、99年6月12日、71歳、心臓疾患
父が被爆した「旧陸軍被服支廠(ししょう)」(現南区)を昨年9月、初めて訪れた。体験をほとんど話さず亡くなったが、現地を歩いて父が抱えていた心の傷を想像した。世界中で核の脅威が広がる中、自分にできることを考え次世代に伝えたい。
小島貴雄(68)=富山
父六雄、23年8月31日、100歳、老衰
幸ノ浦(現江田島市)で特攻訓練をしていた父は、原爆投下後に救助のため市内に入った。幼子の遺体にむしろが掛けられており、悲惨な状況下でも命を大切に思う市民の行動に静かな感動を覚えたと聞いた。父の経験を胸に恒久平和を祈る。
中村あづさ(64)=石川
父大久保四郎、23年9月30日、95歳、老衰
いつも明るい父が、被爆約30年後に当時の惨状を絵に描いていた際の怖い顔が忘れられない。学徒動員先の南観音町(現西区)で被爆した。私は趣味のバンドで原爆をテーマに歌を作り、毎年8月にライブ演奏する。今年も父を思い、歌う。
木下登(56)=福井
父豊、24年5月17日、81歳、肝臓がん
当時2歳だった父は江波山(現中区)近くの自宅で被爆した。原爆について多く語らなかったが、毎年真剣な顔で平和記念式典の中継を見ながら手を合わせていた。初めて式典に参加する自分も、父の姿を思い浮かべながら手を合わせたい。
渡辺一(70)=岐阜
父昌也、24年3月21日、96歳、老衰
陸軍船舶特別幹部候補生だった父は原爆投下後に救護活動で市内に入った。やけどで苦しむ人に「水くれ」とせがまれたが、「死んでしまうので与えてはならない」と上官に命令され、飲ませられなかったと、ずっと悔いていた。
伊藤裕(68)=静岡
母マスエ、24年1月11日、103歳、肺炎
母は長女を妊娠中に段原大畑町(現南区)で倒壊した自宅の下敷きになった。半年後に女児を出産したが、生後7日で亡くなった。ほどなく離婚し、遺骨ももらえなかった。原爆は母を苦しめ続けた。これからも絶対に使ってはならない。
桜井富美子(79)=愛知
伯母鈴木フサノ、45年8月28日、42歳、被爆死
伯母は河原町(現中区)の自宅で被爆した。家の下敷きになった長男は遺体も見つからなかった。四男はがれきの下から焼けて骨になった腕が出ていて形見に持ち帰った。伯母自身も苦しみ、「ピカにやられた」と言って亡くなったという。
鈴木理恵子(62)=三重
父井上公治、96年7月11日、56歳、白血病
父は疎開先の湯来町(現佐伯区)から自身の兄と市内に入り、被爆した。両親の遺骨を捜そうと思ったのだろう。戦後は中島本町(現中区)の自宅跡にバラックを建てて兄弟2人で暮らした。地元の児童に父の体験を伝え続けていきたい。
笠原久美子(62)=滋賀
父藤座正数、24年12月14日、94歳、肺炎
父は私の結婚に影響するのを恐れ、被爆したことは家族を含めてほとんど語らなかった。電柱関連の仕事をしていたらしい。一度だけ尋ねたが、「逃げ回った」の一言しか口にしなかった。恐怖や悲しみを聞いておけばと、後悔している。
加口敦子(69)=京都
母嘉子、24年3月11日、95歳、老衰
母は仕事を休んで買い物に出た際、千田町(現中区)の自宅近くで被爆した。結婚で移った京都では被爆したことを隠し通していた。幼い頃に似島(現南区)で暮らしていたといい、息を引き取る直前に何度も「ここは似島か」とつぶやいた。
横山智恵子(81)=大阪
母石原ミユキ、10年、85歳、不明
市内にいた母は3歳の姉をおぶい、1歳の私を抱いて逃げたと話していた。思い出したくないようで多くを語らなかった。戦争の苦しさを知らない人が世界情勢を悪くしている。広島を離れて60年近く。慰霊碑に花を供えて平和を祈りたい。
中村典子(76)=兵庫
父松崎亨、06年4月12日、86歳、胃がん
父は放射線技師として勤務していた大須賀町(現南区)の鉄道病院で被爆した。入り口で同僚にあいさつした直後だったようだ。生前は原爆の話をほとんど聞けなかった。他の被爆者の体験を紙芝居にまとめており、父の分も語り継ぐ。
北村由起子(62)=奈良
母光子、24年3月10日、84歳、神経内分泌がん
爆心地から約1・5キロの西蟹屋町(現南区)の自宅で被爆した母は健康体だったが、80歳を過ぎて末期の希少がんが見つかり「原爆のせいかな」とつぶやいていた。初めての式典参列で、母の被爆体験や死を受け止める機会にしたい。
大久保通(70)=和歌山
母ツヨコ、23年1月6日、96歳、狭心症
南観音町(現西区)の職場で被爆した母は市中心部の自宅にいた自身の父と外出先で建物の下敷きになった弟を失った。親戚には若くしてがんで亡くなった人もいる。世界の指導者には、核兵器がもたらす生涯にわたる苦しみを学んでほしい。
柴田杉子(62)=鳥取
父伊谷周一、17年12月30日、88歳、骨髄異形成症候群
父は受験で宿泊していた爆心地から1キロの旅館で被爆。一緒に泊まった友人を助けられなかった罪悪感を抱え、戦後は原水爆禁止運動に力を注いだ。今年から父の証言講話や原爆写真展を始めた。遺族同士の連携を深め活動の輪を広げたい。
高木美帆(58)=島根
父将斗、12年5月13日、70歳、がん
3歳だった父は、故郷の奥出雲町から衛生兵の祖父を捜しに祖母と共に被爆後の広島市に入った。祖母のおなかにいた子は生後間もなく亡くなった。父も11年間がんで闘病した。被爆2世として、次世代への継承の手だてを仲間と考えたい。
吉崎修(60)=岡山
母孝子、24年5月30日、96歳、老衰
広島第一陸軍病院看護婦生徒教育隊にいた母は、白島町(現中区)付近にあった宿舎で建物の下敷きになったが、兵隊に助け出された。終戦後は白血球減少などで寝込んだという。亡くなった人の命を思い、70歳まで看護師を続けた。
坪井一恵(68)=広島
父沢井正明、20年4月7日、94歳、老衰
父は被爆時、千田町(現中区)の広島工業専門学校(現広島大工学部)で授業の予習をしていた。教室の廊下側にいて助かった。手記を書くよう勧めたが、最後まで書きたがらなかった。直接体験を聞いた世代として何か形に残したい。
木下俊夫(93)=山口
父清一、45年8月6日、50歳、被爆死
父は兄姉と共に建物疎開作業に動員され、被爆した。捜しに行った私は、遺体も見つけられなかった。退職後に被爆者運動に関わり、戦争も核兵器もない世界の実現を訴えてきたが、いまだに各地で争いが繰り返される状況に憤りを覚える。
住友義正(69)=徳島
父芳男、25年1月24日、95歳、誤嚥(ごえん)性肺炎
当時16歳で国鉄の保線区で働いていた父は、原爆投下当日に広島駅に救援に入ったと聞いた。夏を迎えると、時々ぽつりと語ってくれた。「水が欲しい」の言葉、血を流した人の姿…。忘れたくても忘れられなかったのだろう。
庵原(いはら)伸二(65)=香川
父稔、19年12月13日、81歳、急性心筋梗塞
7歳だった父は原爆投下の瞬間、東観音(現西区)の自宅近くの寺で友達と相撲を取っていた。土塀があり爆風にはさらされなかったが、衝撃で気絶したらしい。今年は七回忌。父と犠牲になった方々が安らかに眠れるよう願っている。
中田淳(66)=愛媛
父満直、23年5月14日、93歳、老衰
父は、江波町(現中区)の造船所で防空壕(ごう)を掘る作業中に被爆した。翌日から行方不明の同僚を捜し回った。口数が少なかったが、体験記を残していた。子や孫に伝えたかったのだろう。初めて式典に参列し、原爆資料館も見学したい。
岡部卓雄(77)=高知
母松喜、21年10月26日、97歳、誤嚥性肺炎
母は結婚を考えていた陸軍中尉の男性と高知から広島市を訪れ、幟町(現中区)で被爆した。建物の下敷きになった男性に「逃げろ」と促され、泣く泣く離れた。男性は焼死。悲しみが深く、思い出したくない記憶だっただろう。
栗田紀美(70)=福岡
父森田美芳、08年11月6日、80歳、脳梗塞
徴兵されて宮島で訓練中だった父は救護に向かい、入市被爆した。家族には何も語らず、証言集で「悪夢」という体験を知った。晩年は福岡県原爆被害者相談所長を務め、被爆者支援に関わった。父の考えていたことや思いに近づきたい。
埋金崇子(92)=佐賀
姉森田都美子、24年10月4日、94歳、皮膚がん
進徳高等女学校(現進徳女子高)3年だった姉は学校を休み、用事で広島駅に向かう途中に出汐町(現南区)周辺で吹き飛ばされた。右腕にやけどを負って避難先に合流した。広島に行くのは最後と思う。姉を思い、灯籠を流す。
淀桂子(60)=長崎
母恵南益子、24年9月8日、89歳、老衰
母は田中町(現中区)の自宅で被爆し、「昨日のように思い出してつらい」と体験を口にすることはなかった。8月6日は一緒にテレビで式典を見て手を合わせてきたが、今年は母がいない。静かに祈り、自分に何ができるかを考えたい。
宮本英明(63)=熊本
父英雄、25年3月9日、93歳、心不全
学徒動員で江波(現中区)にいた父は自身の兄弟を捜しに市中心部へ入った。小学生だった私に被爆者の写真集をくれたが体験は語らなかった。晩年は「広島に行きたい」が口癖だった。父の母校の袋町小(中区)を訪ね、面影を探したい。
岡田倫明(67)=大分
父實、15年12月8日、90歳、肺炎
宇品(現南区)の陸軍船舶練習部にいた父は被爆後に市中心部へ救援に向かった。川から遺体を引き揚げ、焼いた臭いや感触を忘れられなかった。長く県被団協会長を務め証言などに力を入れた。私も昨春に会長に就任。活動をつなぎたい。
沢田隆司(74)=沖縄
母美代子、11年4月19日、85歳、静脈瘤(りゅう)破裂
西白島町(現中区)の自宅で被爆した母は背中にガラスの破片が刺さった。建物疎開作業に出た叔母は全身やけどで亡くなった。母は被爆体験を話したがらなかった。今回初めて長男と一緒に広島を訪ねる。私の故郷で、家族が被爆した地をしっかり見てほしい。
≪記事の読み方≫遺族代表の名前と年齢=都道府県名。亡くなった被爆者の続柄と名前、死没年月日(西暦は下2桁)、死没時の年齢、死因。遺族のひと言。敬称略。
(2025年8月5日朝刊掲載)
佐谷正恵(69)=北海道
母小清水光子、24年4月23日、95歳、老衰
広島女学院高女1年だった母は、崩れた学校の体育館の下敷きに。寛容で忍耐強い人だったが、8月6日が近づくと不安定になった。昨年他界し、最初で最後のつもりで式典に参列する。母が父と出会った地でもある広島を娘と巡りたい。
藤田和矩(79)=青森
母俊子、46年9月3日、21歳、心不全
母は白島九軒町(現中区)の自宅で被爆し、私を産んだ半年後に亡くなった。幼い頃は病弱で長く生きられないといわれた私だが、母がくれた命のおかげで今も元気。数年前からは証言活動も始めた。母の分も生きて平和の尊さを伝える。
木村仁紀(57)=宮城
祖父山縣貞臣、45年8月9日、42歳、被爆死
内科医だった祖父は往診に行く途中、堀川町(現中区)の自宅付近で被爆。「無念でならない」と言い残して亡くなったと、被爆者の母から聞いた。証言をできるのは県内で母1人になった。2世としてサポートし続けたい。
水谷羊一(77)=秋田
姉浦子、24年6月3日、78歳、老衰
広島文理科大(現広島大)の学生だった父の安否を確かめるため、原爆投下1週間後に広島に入った母のおなかに姉がいた。歌人だった父も被爆し、その悲惨さを伝える歌を残して、原爆症のため49歳で亡くなった。家族の体験を生きている限り伝えていきたい。
小松宏生(ひろみ)(91)=栃木
母米倉登喜栄、03年10月2日、93歳、心筋梗塞
母は白島町(現中区)の自宅にいた。倒壊したが、大きなけがをせずに抜け出せた。疎開先から私を連れ戻し、爆心地近くで父を一緒に捜したが見つからなかった。私が結婚できるか心配し「被爆したとは言わないように」と話していた。
坂下紀子(82)=埼玉
伯母隆杉京、98年9月13日、82歳、心不全
伯母は青果の仕入れ中に旧制広島二中(現観音高)付近で爆風に飛ばされた。私も中広町(現西区)の母の実家で被爆した。体験を風化させまいと、11年前に証言を始めた。家族や私の記憶、今年の式典で感じた思いを本に残したい。
隆杉渉(83)=千葉
弟敏之、13年8月6日、69歳、不明
弟は1歳、私は3歳の時に爆心地から800メートルの横堀町(現中区)の自宅で被爆。爆風でつぶれた家の下敷きになったが、一緒に住む祖母たちに救出された。弟は晩年、肌に赤黒い斑点が出ては消えを繰り返した。私は放射能の恐怖と常に向き合って生きている。
竹中清史(86)=東京
父靖一、86年12月19日、80歳、脳梗塞
陸軍船舶司令部(暁部隊)で備品の管理をしていた父は宇品町(現南区)で被爆した。地面に伏せて爆風を逃れた。私と母、姉、妹2人は翠町(同)の自宅にいて無事だった。当時の出来事を一つでも思い出し、東京の小中学生に伝える。
新宅友穂(70)=神奈川
父守、99年6月12日、71歳、心臓疾患
父が被爆した「旧陸軍被服支廠(ししょう)」(現南区)を昨年9月、初めて訪れた。体験をほとんど話さず亡くなったが、現地を歩いて父が抱えていた心の傷を想像した。世界中で核の脅威が広がる中、自分にできることを考え次世代に伝えたい。
小島貴雄(68)=富山
父六雄、23年8月31日、100歳、老衰
幸ノ浦(現江田島市)で特攻訓練をしていた父は、原爆投下後に救助のため市内に入った。幼子の遺体にむしろが掛けられており、悲惨な状況下でも命を大切に思う市民の行動に静かな感動を覚えたと聞いた。父の経験を胸に恒久平和を祈る。
中村あづさ(64)=石川
父大久保四郎、23年9月30日、95歳、老衰
いつも明るい父が、被爆約30年後に当時の惨状を絵に描いていた際の怖い顔が忘れられない。学徒動員先の南観音町(現西区)で被爆した。私は趣味のバンドで原爆をテーマに歌を作り、毎年8月にライブ演奏する。今年も父を思い、歌う。
木下登(56)=福井
父豊、24年5月17日、81歳、肝臓がん
当時2歳だった父は江波山(現中区)近くの自宅で被爆した。原爆について多く語らなかったが、毎年真剣な顔で平和記念式典の中継を見ながら手を合わせていた。初めて式典に参加する自分も、父の姿を思い浮かべながら手を合わせたい。
渡辺一(70)=岐阜
父昌也、24年3月21日、96歳、老衰
陸軍船舶特別幹部候補生だった父は原爆投下後に救護活動で市内に入った。やけどで苦しむ人に「水くれ」とせがまれたが、「死んでしまうので与えてはならない」と上官に命令され、飲ませられなかったと、ずっと悔いていた。
伊藤裕(68)=静岡
母マスエ、24年1月11日、103歳、肺炎
母は長女を妊娠中に段原大畑町(現南区)で倒壊した自宅の下敷きになった。半年後に女児を出産したが、生後7日で亡くなった。ほどなく離婚し、遺骨ももらえなかった。原爆は母を苦しめ続けた。これからも絶対に使ってはならない。
桜井富美子(79)=愛知
伯母鈴木フサノ、45年8月28日、42歳、被爆死
伯母は河原町(現中区)の自宅で被爆した。家の下敷きになった長男は遺体も見つからなかった。四男はがれきの下から焼けて骨になった腕が出ていて形見に持ち帰った。伯母自身も苦しみ、「ピカにやられた」と言って亡くなったという。
鈴木理恵子(62)=三重
父井上公治、96年7月11日、56歳、白血病
父は疎開先の湯来町(現佐伯区)から自身の兄と市内に入り、被爆した。両親の遺骨を捜そうと思ったのだろう。戦後は中島本町(現中区)の自宅跡にバラックを建てて兄弟2人で暮らした。地元の児童に父の体験を伝え続けていきたい。
笠原久美子(62)=滋賀
父藤座正数、24年12月14日、94歳、肺炎
父は私の結婚に影響するのを恐れ、被爆したことは家族を含めてほとんど語らなかった。電柱関連の仕事をしていたらしい。一度だけ尋ねたが、「逃げ回った」の一言しか口にしなかった。恐怖や悲しみを聞いておけばと、後悔している。
加口敦子(69)=京都
母嘉子、24年3月11日、95歳、老衰
母は仕事を休んで買い物に出た際、千田町(現中区)の自宅近くで被爆した。結婚で移った京都では被爆したことを隠し通していた。幼い頃に似島(現南区)で暮らしていたといい、息を引き取る直前に何度も「ここは似島か」とつぶやいた。
横山智恵子(81)=大阪
母石原ミユキ、10年、85歳、不明
市内にいた母は3歳の姉をおぶい、1歳の私を抱いて逃げたと話していた。思い出したくないようで多くを語らなかった。戦争の苦しさを知らない人が世界情勢を悪くしている。広島を離れて60年近く。慰霊碑に花を供えて平和を祈りたい。
中村典子(76)=兵庫
父松崎亨、06年4月12日、86歳、胃がん
父は放射線技師として勤務していた大須賀町(現南区)の鉄道病院で被爆した。入り口で同僚にあいさつした直後だったようだ。生前は原爆の話をほとんど聞けなかった。他の被爆者の体験を紙芝居にまとめており、父の分も語り継ぐ。
北村由起子(62)=奈良
母光子、24年3月10日、84歳、神経内分泌がん
爆心地から約1・5キロの西蟹屋町(現南区)の自宅で被爆した母は健康体だったが、80歳を過ぎて末期の希少がんが見つかり「原爆のせいかな」とつぶやいていた。初めての式典参列で、母の被爆体験や死を受け止める機会にしたい。
大久保通(70)=和歌山
母ツヨコ、23年1月6日、96歳、狭心症
南観音町(現西区)の職場で被爆した母は市中心部の自宅にいた自身の父と外出先で建物の下敷きになった弟を失った。親戚には若くしてがんで亡くなった人もいる。世界の指導者には、核兵器がもたらす生涯にわたる苦しみを学んでほしい。
柴田杉子(62)=鳥取
父伊谷周一、17年12月30日、88歳、骨髄異形成症候群
父は受験で宿泊していた爆心地から1キロの旅館で被爆。一緒に泊まった友人を助けられなかった罪悪感を抱え、戦後は原水爆禁止運動に力を注いだ。今年から父の証言講話や原爆写真展を始めた。遺族同士の連携を深め活動の輪を広げたい。
高木美帆(58)=島根
父将斗、12年5月13日、70歳、がん
3歳だった父は、故郷の奥出雲町から衛生兵の祖父を捜しに祖母と共に被爆後の広島市に入った。祖母のおなかにいた子は生後間もなく亡くなった。父も11年間がんで闘病した。被爆2世として、次世代への継承の手だてを仲間と考えたい。
吉崎修(60)=岡山
母孝子、24年5月30日、96歳、老衰
広島第一陸軍病院看護婦生徒教育隊にいた母は、白島町(現中区)付近にあった宿舎で建物の下敷きになったが、兵隊に助け出された。終戦後は白血球減少などで寝込んだという。亡くなった人の命を思い、70歳まで看護師を続けた。
坪井一恵(68)=広島
父沢井正明、20年4月7日、94歳、老衰
父は被爆時、千田町(現中区)の広島工業専門学校(現広島大工学部)で授業の予習をしていた。教室の廊下側にいて助かった。手記を書くよう勧めたが、最後まで書きたがらなかった。直接体験を聞いた世代として何か形に残したい。
木下俊夫(93)=山口
父清一、45年8月6日、50歳、被爆死
父は兄姉と共に建物疎開作業に動員され、被爆した。捜しに行った私は、遺体も見つけられなかった。退職後に被爆者運動に関わり、戦争も核兵器もない世界の実現を訴えてきたが、いまだに各地で争いが繰り返される状況に憤りを覚える。
住友義正(69)=徳島
父芳男、25年1月24日、95歳、誤嚥(ごえん)性肺炎
当時16歳で国鉄の保線区で働いていた父は、原爆投下当日に広島駅に救援に入ったと聞いた。夏を迎えると、時々ぽつりと語ってくれた。「水が欲しい」の言葉、血を流した人の姿…。忘れたくても忘れられなかったのだろう。
庵原(いはら)伸二(65)=香川
父稔、19年12月13日、81歳、急性心筋梗塞
7歳だった父は原爆投下の瞬間、東観音(現西区)の自宅近くの寺で友達と相撲を取っていた。土塀があり爆風にはさらされなかったが、衝撃で気絶したらしい。今年は七回忌。父と犠牲になった方々が安らかに眠れるよう願っている。
中田淳(66)=愛媛
父満直、23年5月14日、93歳、老衰
父は、江波町(現中区)の造船所で防空壕(ごう)を掘る作業中に被爆した。翌日から行方不明の同僚を捜し回った。口数が少なかったが、体験記を残していた。子や孫に伝えたかったのだろう。初めて式典に参列し、原爆資料館も見学したい。
岡部卓雄(77)=高知
母松喜、21年10月26日、97歳、誤嚥性肺炎
母は結婚を考えていた陸軍中尉の男性と高知から広島市を訪れ、幟町(現中区)で被爆した。建物の下敷きになった男性に「逃げろ」と促され、泣く泣く離れた。男性は焼死。悲しみが深く、思い出したくない記憶だっただろう。
栗田紀美(70)=福岡
父森田美芳、08年11月6日、80歳、脳梗塞
徴兵されて宮島で訓練中だった父は救護に向かい、入市被爆した。家族には何も語らず、証言集で「悪夢」という体験を知った。晩年は福岡県原爆被害者相談所長を務め、被爆者支援に関わった。父の考えていたことや思いに近づきたい。
埋金崇子(92)=佐賀
姉森田都美子、24年10月4日、94歳、皮膚がん
進徳高等女学校(現進徳女子高)3年だった姉は学校を休み、用事で広島駅に向かう途中に出汐町(現南区)周辺で吹き飛ばされた。右腕にやけどを負って避難先に合流した。広島に行くのは最後と思う。姉を思い、灯籠を流す。
淀桂子(60)=長崎
母恵南益子、24年9月8日、89歳、老衰
母は田中町(現中区)の自宅で被爆し、「昨日のように思い出してつらい」と体験を口にすることはなかった。8月6日は一緒にテレビで式典を見て手を合わせてきたが、今年は母がいない。静かに祈り、自分に何ができるかを考えたい。
宮本英明(63)=熊本
父英雄、25年3月9日、93歳、心不全
学徒動員で江波(現中区)にいた父は自身の兄弟を捜しに市中心部へ入った。小学生だった私に被爆者の写真集をくれたが体験は語らなかった。晩年は「広島に行きたい」が口癖だった。父の母校の袋町小(中区)を訪ね、面影を探したい。
岡田倫明(67)=大分
父實、15年12月8日、90歳、肺炎
宇品(現南区)の陸軍船舶練習部にいた父は被爆後に市中心部へ救援に向かった。川から遺体を引き揚げ、焼いた臭いや感触を忘れられなかった。長く県被団協会長を務め証言などに力を入れた。私も昨春に会長に就任。活動をつなぎたい。
沢田隆司(74)=沖縄
母美代子、11年4月19日、85歳、静脈瘤(りゅう)破裂
西白島町(現中区)の自宅で被爆した母は背中にガラスの破片が刺さった。建物疎開作業に出た叔母は全身やけどで亡くなった。母は被爆体験を話したがらなかった。今回初めて長男と一緒に広島を訪ねる。私の故郷で、家族が被爆した地をしっかり見てほしい。
≪記事の読み方≫遺族代表の名前と年齢=都道府県名。亡くなった被爆者の続柄と名前、死没年月日(西暦は下2桁)、死没時の年齢、死因。遺族のひと言。敬称略。
(2025年8月5日朝刊掲載)