故中沢啓治さんが76年に寄せた「緑地帯」 あすから再掲 「ゲン」に込めた 原爆・家族愛
25年8月5日
妻ミサヨさんに思い出聞く
原爆の非人道性を国内外に広く訴え続けてきた漫画「はだしのゲン」。作者の故中沢啓治さんが1976年、中国新聞文化面に「『はだしのゲン』と私」のタイトルで寄せた連載コラム「緑地帯」を、被爆80年を迎える6日から再掲する。当時、少年誌での連載を経て初の単行本が人気を呼び、一躍脚光を浴びていた中沢さん。コラムには「ゲン」を描くに至った決意や生々しい感情をつづる。妻ミサヨさん(82)に全8回を再読した感想や思い出を語ってもらった。(西村文)
懐かしいですね。これは夫が初めて自分について書いた文章だと思います。「文章を書くのは嫌いだ」と言いながら、漫画を描く合間に原稿用紙に向かっていました。
66年2月に結婚して10月、夫の母が亡くなりました。夫と原爆を共に生き延びた母。広島での葬儀から東京に帰る新幹線の中で、夫がずっと黙っていたことを覚えています。帰宅してからも無口で、1人で散歩に出ることも多く、「母を亡くした悲しみを背負っているのだな」と私は思い込んでいた。
ある日「これ読んで」と渡された原稿が、初めて原爆をテーマに描いたハードボイルド作品「黒い雨にうたれて」。ずっと「描くか、描くまいか」と悩み苦しんでいたのだと理解しました。それまで原爆については一切、私に話すことはありませんでした。
自らの被爆体験を描いたのは72年に発表した「おれは見た」が最初です。私は蒲刈町(現呉市)の出身ですが、「こんな悲惨な体験だったのか」と驚きました。この作品が好評だったため、翌年、少年ジャンプで「はだしのゲン」の連載が始まります。週刊誌の連載は本当に大変。3日間でネーム(漫画の設計図)を組んで残り4日で絵を仕上げなければなりません。「間違ったことは描けない」と資料探しにも時間をかけていました。
その頃、オイルショックを背景にした紙不足で、ページ数が減っていきました。短い一話の中で、ドラマのヤマ場を作ることに苦心していた。次第に人気が落ちて休載することに。大ヒットしたのは、別の出版社から単行本が出てからです。一冊を通して読むとドラマが伝わり、感動した読者からたくさん手紙が来た。「俺は自信があったんだ」と夫は言っていました。
私は家事をしながら漫画のアシスタントも務めました。素人だったけれど、家の本棚に並んでいた白土三平さんの漫画を手本にして。夫がいない時にこっそり、ペンで木や草を描いて練習しました。
夫はほんとに漫画が大好きで、手塚治虫さんを尊敬していました。ドラマの作り方は、映画を繰り返し見て学んでいました。黒澤明監督の作品が大好きでしたし、「家族愛の描き方がいいんだよ」と小津安二郎作品を何度も見ていました。
「人間は弱いものを助けなくちゃいけない」が口癖。その影響で娘は医療系に進学し、看護学校の先生になりました。娘に男の子が生まれたとき、名前について相談を受けた夫は「元(ゲン)がいい」と。私は反対したんですけど。孫の元は今、研修医をしています。
コラムを通じて夫の思いを受け取ってもらえたらいいですね。
なかざわ・けいじ
1939年広島市生まれ。6歳で被爆、父と姉、弟を失った。61年に上京、63年漫画家デビュー。73年連載開始の「はだしのゲン」は、掲載誌を移りながら87年完結。2012年73歳で死去。24年米アイズナー賞「コミックの殿堂」受賞。
(2025年8月5日朝刊掲載)