戦後80年 芸南賀茂 原爆を見た医師 <上> 呉医療センター名誉院長 大村一郎さん(97)
25年8月5日
差別でなく 手差し伸べて
薬害患者たちの診断と治療に尽くしてきた呉医療センター名誉院長で、ほうゆう病院の現役医師の大村一郎さん(97)=呉市=は1945年8月6日、江田島市の旧海軍兵学校大原分校にいた。原爆のごう音と爆風は、爆心地から16キロ離れた島にも圧倒的な威力で届いた。
兵学校にも爆風
その朝も、いつものように海に向かって大声を出し、声帯を強くする訓練をしていた。「お母さん」と叫ぶ同級生もいた。同じ寂しさを感じているからだろうか、鉄拳制裁を振るう先輩たちもとがめなかった。
閃光(せんこう)は自習中に浴びた。ドンと音が響き、窓ガラスが割れた。「火薬庫が爆発した」との声。机の下に潜り込んだ。45年に江田島に来る前、旧制高校で父と同窓で日本の原爆開発計画に関わった仁科芳雄博士から直接「原爆を造った国が勝つ」と聞いていた。だが原爆とは分からなかった。
皮膚の垂れた姿
戦争に負けるとも思わなかった。「勝った、勝った」という大本営発表を聞き続けていたから。玉音放送を聞いても「天皇陛下の激励だ」と感じた。それでも、敗戦が分かるとほっとした。その1、2日後、宇品港から広島駅に向かうトラックから皮膚の垂れた人の姿を見た。「地獄だった」
戦後は大阪大に進み、神経内科の医師になった。63年、国立呉病院(現呉医療センター)に赴任。呉で出会ったのは、整腸剤として投与されたキノホルムの副作用で、歩けなくなったり、失明したりした薬害スモンの患者たちだった。裁判に提出する鑑定書を書くため、患者宅を1軒ずつ回った。診察室では、しびれがあるのに「気のせい」と見放された患者の言葉を聞き続けた。
「うつる」と言われ差別された原爆症と同じように、スモンも当初、伝染性の奇病と言われた。疎まれて、自殺する患者もいた。大村さんは「障害を差別するのではなく、手を差し伸べないといけない」と強調する。
終戦80年の夏。日本政府が「核兵器はやめよう」と言う気配がないのをもどかしく思う。「被爆国だからもっと大きな声で言ってもいい。そもそも戦争だけはやっちゃいかん。勝ったとしても多くの人が犠牲になる」(衣川圭)
◇
学生時代に原爆とその被害を見た呉市ゆかりの医師のメッセージを、2回にわたり紹介する。
(2025年8月5日朝刊掲載)