[被爆80年 いま伝えて] 生きた証し 人形に投影 辻村寿三郎さん作「ヒロシマより心をこめて」
25年8月5日
くすんだ厚手の服を着込んだ少年とモンペの少女が寄り添う人形。右手を握り、強い視線を前へ向ける。「ヒロシマより心をこめて」と題し、三次市三次町の辻村寿三郎人形館に常設展示されている。三次ゆかりの人形作家辻村寿三郎さん(2023年に89歳で死去)が戦後20年の1965年に発表した初期作品だ。
心許した友達
少女の名は「みっちゃん」。2人はきょうだいで、広島市に原爆が投下されて1年ほど後に亡くなったという。「心を許した友達だったそう。辻村はいつも人を大切にしていました」。二代目辻村寿三郎として三次で活動する川崎員奥(かずお)さん(77)は話す。
辻村さんは旧満州(中国東北部)で生まれ、養父母に育てられた。44年に広島市へ。大芝国民学校(現西区の大芝小)に転入し、みっちゃんも同じ旧満州からの引き揚げ者だった。辻村さんは45年春、養母の郷里三次へ転居。8月6日、広島の街は原爆で焼かれた。
その年の秋、三次国民学校(現三次小)6年生だった辻村さんは米1升を携え、1人で広島へ向かったという。みっちゃんを捜し回り、薄暗くなってようやく再会できたと後年語っている。
「心配で心配で、会いたいという気持ちに駆られたんでしょう」と川崎さん。当時、辻村さんは三次で原爆被害を目の当たりにしたという。
救護を手伝い
大勢の被爆者が芸備線やトラックで現三次、庄原、安芸高田市に逃れてきた。学校や旅館が救護所に。「三次市史」などによると、三次では5校に計約千人を収容し、三次国民学校にも約100人が運び込まれた。
「親や上級生のそばで私たちも救護を手伝いました」と、今も三次町に暮らす山﨑節子さん(91)と中西保恵さん(91)。手伝う児童の中に同級生の辻村さんもいた。
木造の校舎内にむしろを敷き、やけどや血だらけの被爆者が横たわっていた。山﨑さんたちは来る日も水くみに励み、木の枝でウジも取ったという。「辻村君も衝撃を受けたはず。当時から縫い物が好きで、やおい(優しい)子でしたから」
還暦まで封印
22歳で上京し、独自の創作世界を開いた辻村さん。手がけた和洋の人形はあでやかで妖艶さを放つ。その中で「ヒロシマより―」は異色だ。発表当初も「人形にメッセージはいらない」と指摘され、還暦を過ぎるまで封印してきた。
「心をこめて」。辻村さんは「私の原点」とした作品にどんな思いを託したのだろう。「親友を懐かしみ、精いっぱい生きた姿を人形作家として伝えたかったのかも」と川崎さん。「向き合ったときに何を感じるか。辻村は一人一人に考えてほしいんじゃないかと思うんです」(林淳一郎)
◇
原爆や戦争の記憶は県北地域にも深く刻まれている。80年を経て、次代にどう伝えていくか。老いゆく当事者の語り、バトンをつなぐ人たちの取り組みから考える。
(2025年8月5日朝刊掲載)
心許した友達
少女の名は「みっちゃん」。2人はきょうだいで、広島市に原爆が投下されて1年ほど後に亡くなったという。「心を許した友達だったそう。辻村はいつも人を大切にしていました」。二代目辻村寿三郎として三次で活動する川崎員奥(かずお)さん(77)は話す。
辻村さんは旧満州(中国東北部)で生まれ、養父母に育てられた。44年に広島市へ。大芝国民学校(現西区の大芝小)に転入し、みっちゃんも同じ旧満州からの引き揚げ者だった。辻村さんは45年春、養母の郷里三次へ転居。8月6日、広島の街は原爆で焼かれた。
その年の秋、三次国民学校(現三次小)6年生だった辻村さんは米1升を携え、1人で広島へ向かったという。みっちゃんを捜し回り、薄暗くなってようやく再会できたと後年語っている。
「心配で心配で、会いたいという気持ちに駆られたんでしょう」と川崎さん。当時、辻村さんは三次で原爆被害を目の当たりにしたという。
救護を手伝い
大勢の被爆者が芸備線やトラックで現三次、庄原、安芸高田市に逃れてきた。学校や旅館が救護所に。「三次市史」などによると、三次では5校に計約千人を収容し、三次国民学校にも約100人が運び込まれた。
「親や上級生のそばで私たちも救護を手伝いました」と、今も三次町に暮らす山﨑節子さん(91)と中西保恵さん(91)。手伝う児童の中に同級生の辻村さんもいた。
木造の校舎内にむしろを敷き、やけどや血だらけの被爆者が横たわっていた。山﨑さんたちは来る日も水くみに励み、木の枝でウジも取ったという。「辻村君も衝撃を受けたはず。当時から縫い物が好きで、やおい(優しい)子でしたから」
還暦まで封印
22歳で上京し、独自の創作世界を開いた辻村さん。手がけた和洋の人形はあでやかで妖艶さを放つ。その中で「ヒロシマより―」は異色だ。発表当初も「人形にメッセージはいらない」と指摘され、還暦を過ぎるまで封印してきた。
「心をこめて」。辻村さんは「私の原点」とした作品にどんな思いを託したのだろう。「親友を懐かしみ、精いっぱい生きた姿を人形作家として伝えたかったのかも」と川崎さん。「向き合ったときに何を感じるか。辻村は一人一人に考えてほしいんじゃないかと思うんです」(林淳一郎)
◇
原爆や戦争の記憶は県北地域にも深く刻まれている。80年を経て、次代にどう伝えていくか。老いゆく当事者の語り、バトンをつなぐ人たちの取り組みから考える。
(2025年8月5日朝刊掲載)