[被爆80年] 亡き父の体験 書き継ぐ 東区の西尾さん 残された手記に加筆 「もっと聴いておけば」
25年8月5日
広島市東区の西尾良子さん(70)が、昨年11月に97歳で亡くなった父烏田(からすだ)一男さんの被爆体験記をまとめた。父が生前に残した手記には原爆で失った家族の詳しい記述がなく、聞いていた証言や資料を基に加筆して仕上げた。父の体験を記録できた半面、「もっと聴いておけば良かった」との思いも募らせている。(下高充生)
烏田さんは1945年8月6、7日の様子を中心にした手記を国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)に残している。内容から83年以前の執筆とみられる。遺体を見た描写などはあるが、原爆で亡くなった母や妹の消息に関する記述はない。末尾に「八月八日」とあり、「未完」の文章の可能性もある。
「あの日」、烏田さんは呉海軍工廠(こうしょう)で働いていた。家族は爆心地から約800メートルの今の中区三川町在住。広島から呉に逃れて来た負傷者の姿に「広島全滅と。不安を感ず」(烏田さんの手記)。翌日、広島に入った。
手記の存在を知っていた西尾さんは昨年11月の父の死を受け、より詳しくしようと決意。孫に当たる自身の子どもに伝えていた被爆体験を思い起こし、資料も調べながら「妹のところへ行くと、妹は息を引きとっていました」「(母は)八月三十日、亡くなりました」などと書き加えた。400字詰め原稿用紙4枚にまとめ、今年2月に祈念館に収めた。
烏田さんの母マサヨさん=当時(37)=は自宅にいたとみられ、大けがを負った。金輪島(現南区)に運ばれた後、安村(現安佐南区)の実家で療養していたが、8月30日に死去。広島女子高等師範学校付属山中高等女学校(現広島大付属福山中高)専攻科の妹三七子さん=同(16)=は広島城内の中国軍管区司令部に動員されて被爆。7日までに亡くなった。
元小学校教諭の西尾さんは、教え子たちが家族から記憶を受け継ぐ難しさを感じてきた。自ら編んだ父の手記にはマサヨさんが亡くなるまでの経緯や、父の胸中など書けなかった点も多くある。「時がたつにつれ、よほど意識的に取り組まないと難しくなっていく」。自身の経験から継承の大切さを訴える。
(2025年8月5日朝刊掲載)
烏田さんは1945年8月6、7日の様子を中心にした手記を国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)に残している。内容から83年以前の執筆とみられる。遺体を見た描写などはあるが、原爆で亡くなった母や妹の消息に関する記述はない。末尾に「八月八日」とあり、「未完」の文章の可能性もある。
「あの日」、烏田さんは呉海軍工廠(こうしょう)で働いていた。家族は爆心地から約800メートルの今の中区三川町在住。広島から呉に逃れて来た負傷者の姿に「広島全滅と。不安を感ず」(烏田さんの手記)。翌日、広島に入った。
手記の存在を知っていた西尾さんは昨年11月の父の死を受け、より詳しくしようと決意。孫に当たる自身の子どもに伝えていた被爆体験を思い起こし、資料も調べながら「妹のところへ行くと、妹は息を引きとっていました」「(母は)八月三十日、亡くなりました」などと書き加えた。400字詰め原稿用紙4枚にまとめ、今年2月に祈念館に収めた。
烏田さんの母マサヨさん=当時(37)=は自宅にいたとみられ、大けがを負った。金輪島(現南区)に運ばれた後、安村(現安佐南区)の実家で療養していたが、8月30日に死去。広島女子高等師範学校付属山中高等女学校(現広島大付属福山中高)専攻科の妹三七子さん=同(16)=は広島城内の中国軍管区司令部に動員されて被爆。7日までに亡くなった。
元小学校教諭の西尾さんは、教え子たちが家族から記憶を受け継ぐ難しさを感じてきた。自ら編んだ父の手記にはマサヨさんが亡くなるまでの経緯や、父の胸中など書けなかった点も多くある。「時がたつにつれ、よほど意識的に取り組まないと難しくなっていく」。自身の経験から継承の大切さを訴える。
(2025年8月5日朝刊掲載)