[記者×思い] 個人の記憶を世界の記憶に 報道センター社会担当 下高充生
25年8月5日
6月末に「ヒロシマ ドキュメント」の取材班から広島市政の担当に戻った。屋外の取材が増え、体力不足を実感した。30歳。
「いつもの事ですが、八月六日が近づくにつれ胸の奥がとてもとても悲しくなって、心の中で『お父ちゃん、お父ちゃん』と呼んでいます」
こう書き出した手紙を先月、受け取った。被爆80年をたどる企画「ヒロシマ ドキュメント」で1月に取材した85歳の女性が送ってくれた。父親は爆心地近くで被爆したとみられ、行方も分かっていない。身元不明の遺骨を安置する平和記念公園(広島市中区)の原爆供養塔の納骨室が報道公開されたとの記事を読み、したためたという。
1月から企画の取材班に加わり、原爆被害者や支援者たちを訪ね歩いてきた。80年たっても癒えない傷に触れ、記者という仕事の責任を考えた。
冒頭の女性は取材に「夏になると子どもに返る」と明かした。被爆から約20年後、「被爆者という十字架」から逃れようと上京した先で結婚差別に遭った男性がいた。国が強いてきた戦争被害の受忍に今もあらがい、「被害を過小評価させない」と被爆者の声を聞き続ける相談員もいる。
原爆が何をもたらし、戦争や核兵器はなぜなくさなければならないのか―。公的記録にも教科書にも載ってこなかった体験や証言を積み上げ、大きな問いへの答えを見つけていく日々だった。初期の被爆者運動を引っ張った藤居平一さん(1915~96年)の「庶民の歴史を世界史にする」という言葉を借りれば、記事を書くことは個人の記憶を世界の記憶にすることなのだと感じた。
女性は手紙を「戦争のない世の中になりますように」と結んでいた。米軍の原爆により広島の街が焼き尽くされ、多くの市民が大切な人を奪われて6日で80年。被爆者や遺族が平和を求め続ける意味は重い。戦火の絶えない世界で記者として何を書いたか。この記事もあすにはドキュメント(記録物)になる。50年後、100年後まで問われ続けると自覚し、きょうも書く。
(2025年8月5日朝刊掲載)
「いつもの事ですが、八月六日が近づくにつれ胸の奥がとてもとても悲しくなって、心の中で『お父ちゃん、お父ちゃん』と呼んでいます」
こう書き出した手紙を先月、受け取った。被爆80年をたどる企画「ヒロシマ ドキュメント」で1月に取材した85歳の女性が送ってくれた。父親は爆心地近くで被爆したとみられ、行方も分かっていない。身元不明の遺骨を安置する平和記念公園(広島市中区)の原爆供養塔の納骨室が報道公開されたとの記事を読み、したためたという。
1月から企画の取材班に加わり、原爆被害者や支援者たちを訪ね歩いてきた。80年たっても癒えない傷に触れ、記者という仕事の責任を考えた。
冒頭の女性は取材に「夏になると子どもに返る」と明かした。被爆から約20年後、「被爆者という十字架」から逃れようと上京した先で結婚差別に遭った男性がいた。国が強いてきた戦争被害の受忍に今もあらがい、「被害を過小評価させない」と被爆者の声を聞き続ける相談員もいる。
原爆が何をもたらし、戦争や核兵器はなぜなくさなければならないのか―。公的記録にも教科書にも載ってこなかった体験や証言を積み上げ、大きな問いへの答えを見つけていく日々だった。初期の被爆者運動を引っ張った藤居平一さん(1915~96年)の「庶民の歴史を世界史にする」という言葉を借りれば、記事を書くことは個人の記憶を世界の記憶にすることなのだと感じた。
女性は手紙を「戦争のない世の中になりますように」と結んでいた。米軍の原爆により広島の街が焼き尽くされ、多くの市民が大切な人を奪われて6日で80年。被爆者や遺族が平和を求め続ける意味は重い。戦火の絶えない世界で記者として何を書いたか。この記事もあすにはドキュメント(記録物)になる。50年後、100年後まで問われ続けると自覚し、きょうも書く。
(2025年8月5日朝刊掲載)