被爆80年託す想い 鈴藤實さん 父母と姉 震える手で火葬 非戦願い あす慰霊碑へ
25年8月5日
「家族を奪われるほど苦しいことがありましょうか」。広島市西区の鈴藤實(すずとうみのる)さん(94)は今なお、心に傷を抱える。長年、過去を語ってこなかった。「お話しするだけで悲しくなって。いけませんね。伝えるべきなのに」
生家は西引御堂町(現中区十日市町)。食品や酒を扱う商店だった。繁盛していたのだろう。食卓には白米が上った。姉が3人おり、「のるちゃん」と呼ばれた。跡取り息子だからか、幼い頃は軽いけがでも家中が大騒ぎ。広島県立広島一中(現国泰寺高)に合格した時も喜ばれた。
入学後は勤労奉仕の毎日。1945年春、2年に進み、地御前村(現廿日市市)の旭兵器製作所へ通うようになった。長姉は東京へ嫁ぎ、両親と姉2人の5人暮らし。8月6日も、面倒見のいい次姉の芳子さん=当時(20)=が見送ってくれた。
午前8時15分。原爆は約15キロ離れた工場の窓ガラスを割った。対岸が黒煙に覆われていく。午後、無残に体を焼かれた人々が歩く姿を見た。待機が解けた翌朝、広島電鉄宮島線で自宅へ。荒手駅(現草津南駅)で降ろされ、軌道沿いを歩いた。川辺や道ばたに無数の遺体を見た。
自宅は完全に焼け落ちていた。ぼうぜんとしたが、救護所に家族の姿を捜しながら、町内会の避難先に定められていた旧安佐郡へ向かった。日暮れ時、八木村(現安佐南区)の農家の好意で納屋に寝床を借りると、翌朝は再び自宅跡へ戻り、7日にはなかった立て札を見つけた。古市町(同)の知人宅にいる、と書かれていた。
「ばかですね。全員無事と思ってしまって」。足取りも軽く、来た道を戻ったのだ。が、芳子さんだけがいなかった。翌9日、父喜一さん=同(47)=と自宅跡から遺体を掘り出し、その場で焼いた。「無残な姿だったようです。私は怖くて遠巻きに見ていただけ。父は念仏を唱えながらぼろぼろ泣いていました」
その父も、母タカヨさん=同(42)=も倒れた。27日、けがを負っていた3番目の姉、満枝さん=同(19)=が絶命。もう動けなくなっていた両親に代わり、近所の人の助けを借りて、火葬した。
両親はもう、呼びかけにも答えなくなった。30日の昼前、ついに父が息を引き取る。「父ちゃんが亡くなったよ」。隣に横たわっていた母に告げたが、その目は開かないまま。1時間ほどして、逝ってしまった。「父が寂しがって、母を連れて行ったんでしょう」
翌日、今度は両親を荼毘(だび)に付した。涙があふれ、マッチを持つ手も震えてなかなか火を付けられなかった。近くに住んでいた祖父は7日、祖母も14日に被爆死していた。手元には6人分の骨つぼが残った。
戦後は焼け跡で、父と同じ商売を始めた叔父の世話になった。復学は形だけ。店の手伝いに明け暮れた。「ぼんぼんだったですから。それはもう、つらかったです」
焦がれた家族ができたのは26歳の時。結婚し、息子2人を授かった。大分県内の電線販売会社に長く勤め、20年ほど前、広島で働いていた息子に呼び寄せられた。「孫育て」を楽しみ、今も孫娘たち家族の写真に囲まれて暮らす。
あの頃を思い出すのは今もつらい。原爆資料館に入ったこともない。ただ年を重ね、案ずるようになった。被爆者が一人もいない時代が来る。誰があの苦しみを伝えるのか、と。記者の目を見て、力を込めた。「戦争反対です。親きょうだいの命を絶たれる苦しみは、誰にも味わってほしくない」。6日の夜明け、原爆慰霊碑に同じ祈りをささげる。(編集委員・田中美千子)
(2025年8月5日朝刊掲載)
生家は西引御堂町(現中区十日市町)。食品や酒を扱う商店だった。繁盛していたのだろう。食卓には白米が上った。姉が3人おり、「のるちゃん」と呼ばれた。跡取り息子だからか、幼い頃は軽いけがでも家中が大騒ぎ。広島県立広島一中(現国泰寺高)に合格した時も喜ばれた。
入学後は勤労奉仕の毎日。1945年春、2年に進み、地御前村(現廿日市市)の旭兵器製作所へ通うようになった。長姉は東京へ嫁ぎ、両親と姉2人の5人暮らし。8月6日も、面倒見のいい次姉の芳子さん=当時(20)=が見送ってくれた。
午前8時15分。原爆は約15キロ離れた工場の窓ガラスを割った。対岸が黒煙に覆われていく。午後、無残に体を焼かれた人々が歩く姿を見た。待機が解けた翌朝、広島電鉄宮島線で自宅へ。荒手駅(現草津南駅)で降ろされ、軌道沿いを歩いた。川辺や道ばたに無数の遺体を見た。
自宅は完全に焼け落ちていた。ぼうぜんとしたが、救護所に家族の姿を捜しながら、町内会の避難先に定められていた旧安佐郡へ向かった。日暮れ時、八木村(現安佐南区)の農家の好意で納屋に寝床を借りると、翌朝は再び自宅跡へ戻り、7日にはなかった立て札を見つけた。古市町(同)の知人宅にいる、と書かれていた。
「ばかですね。全員無事と思ってしまって」。足取りも軽く、来た道を戻ったのだ。が、芳子さんだけがいなかった。翌9日、父喜一さん=同(47)=と自宅跡から遺体を掘り出し、その場で焼いた。「無残な姿だったようです。私は怖くて遠巻きに見ていただけ。父は念仏を唱えながらぼろぼろ泣いていました」
その父も、母タカヨさん=同(42)=も倒れた。27日、けがを負っていた3番目の姉、満枝さん=同(19)=が絶命。もう動けなくなっていた両親に代わり、近所の人の助けを借りて、火葬した。
両親はもう、呼びかけにも答えなくなった。30日の昼前、ついに父が息を引き取る。「父ちゃんが亡くなったよ」。隣に横たわっていた母に告げたが、その目は開かないまま。1時間ほどして、逝ってしまった。「父が寂しがって、母を連れて行ったんでしょう」
翌日、今度は両親を荼毘(だび)に付した。涙があふれ、マッチを持つ手も震えてなかなか火を付けられなかった。近くに住んでいた祖父は7日、祖母も14日に被爆死していた。手元には6人分の骨つぼが残った。
戦後は焼け跡で、父と同じ商売を始めた叔父の世話になった。復学は形だけ。店の手伝いに明け暮れた。「ぼんぼんだったですから。それはもう、つらかったです」
焦がれた家族ができたのは26歳の時。結婚し、息子2人を授かった。大分県内の電線販売会社に長く勤め、20年ほど前、広島で働いていた息子に呼び寄せられた。「孫育て」を楽しみ、今も孫娘たち家族の写真に囲まれて暮らす。
あの頃を思い出すのは今もつらい。原爆資料館に入ったこともない。ただ年を重ね、案ずるようになった。被爆者が一人もいない時代が来る。誰があの苦しみを伝えるのか、と。記者の目を見て、力を込めた。「戦争反対です。親きょうだいの命を絶たれる苦しみは、誰にも味わってほしくない」。6日の夜明け、原爆慰霊碑に同じ祈りをささげる。(編集委員・田中美千子)
(2025年8月5日朝刊掲載)