[被爆80年] きのこ雲 撮影カメラ寄贈 広島の波田さん 原爆資料館へ
25年8月6日
惨禍の記憶 継承願う
米軍が広島に投下した原爆のさく裂直後のきのこ雲の撮影者の一人、波田達郎さん(96)=広島市南区=が、当時使ったカメラを原爆資料館(中区)に寄贈した。爆心地から約4・2キロの自宅で被爆し、直後にシャッターを切った体験を今に伝える証し。惨禍の記憶の継承へ、「役に立つならば」と託した。(編集委員・水川恭輔)
カメラは蛇腹式で、波田さんが2023年末ごろに自宅の蔵で見つけた。戦前に父が手に入れた物で、資料館が調べたところ、1910~20年代に製造された米イーストマン・コダック社製という。
80年前、波田さんは広島一中(現国泰寺高)を卒業後も続いていた東洋工業(現マツダ)への動員が8月に入って解除となり、8月6日は仁保町(現南区東本浦町)の自宅にいた。「縁側に座ってたまたま外を見たとき、パッと青白く光って。ものすごい爆風で、3メートルほど離れた座敷に壁や天井がどんと落ちてきた」
中学に入った頃から父の影響でカメラを触っており、庭からカメラを向けた。「父が『あの雲を見てみい、あれを早く撮っとけえ』と言ったからです。爆弾が落ちた方から、雲はもくもくと上がっとりました」。資料館は、ほかの撮影者のきのこ雲の写真などに照らして、原爆投下から15分ほど後の午前8時30分前後の撮影とみている。
波田さんは戦後、広島文理科大(現広島大)を卒業して広島大付属福山中・高の教員に。退職後は不動産業を営んだ。
23年秋、きのこ雲の写真に関する中国新聞記事を読んだのをきっかけに撮影者として名乗り出て、資料館に写真画像を提供した。フィルムの傷みからか、いくつも黒点が付いていたが、資料館は修整画像を作り、カメラとともに今後の新着資料展で展示する予定だ。
80年前のあの日、近くに相次ぎ逃げてきた大やけどの負傷者の姿を波田さんは今も忘れていない。「一発でもあれほどなのに、今はいくつもの国が何倍も強力な核兵器をたくさん持っとる。世界戦争にでもなったら地球が破滅すると思うとります」。託した資料が警鐘の一助になるよう願う。
(2025年8月6日朝刊掲載)