[被爆80年] 聞けなかった父のナガサキ 両被爆地伝承者の岸田さん 思い胸に「2世の使命」
25年8月6日
長崎で原爆に遭った父は生涯自身の体験を明かすことはなかった。広島市西区の岸田英里さん(72)は広島、長崎両市の被爆体験伝承者として活動している。多くの被爆者と出会い、交流を重ねてきた。父から聞けなかった「あの日」に向き合い、次世代に伝えようとしている。(山本真帆)
父の英雄さんは長崎市相生町出身。1945年8月9日、家族と滞在していた上海から長崎県央の大村市の飛行場に着き、故郷の惨状を知る。当時21歳。列車を途中で降ろされ、線路を約4キロ歩いて自宅を目指し、入市被爆した。
これは67年に被爆者健康手帳を取得する際に英雄さんが書き留めた内容で、岸田さんは直接聞いていない。子どもの頃から原爆については「言うな、聞くな、触れるなという感じでした」。広島市内で就職し、家族と暮らしたが、原爆ドーム周辺には近寄りたがらなかった。96年に72歳で亡くなった。
岸田さんは、その理由がずっと気になっていた。広島市が被爆体験伝承者を募集していることを知り、仕事が落ち着いた2015年、「ゆくゆくは長崎でも」との思いを胸に養成研修を受け始めた。
当時いた約40人の被爆体験証言者に取材を重ねた。「皆さんが覚悟を持って話してくれているのが伝わった」。竹岡智佐子さん(20年に92歳で死去)の伝承者となり、その体験を原爆資料館(中区)の来館者や、小中学生たちに語ってきた。
おととしから長崎に通い、2人の被爆者の伝承者になった。池田道明さん(86)と丸田和男さん(93)。池田さんは逃げる道中に壊れた家々が燃える様子や山積みになった死体を目撃していた。丸田さんは母親を亡くした。2人の体験を聞く中で、父もこんな光景を見たんだとの実感が湧いた。「父は話さなかったのではなく、話せなかったんですね」
被爆80年に、岸田さんは父が逝った年齢になった。「被爆者がゼロになる日は必ず来る。2世としての使命感が強くなっています」と話す。7月下旬にあった原爆資料館での竹岡さんの伝承講話で、岸田さんは「今日聞いて感じたことを誰かに伝承してください」と締めくくった。広島と長崎、二つの被爆地から伝承の輪を広げる。
(2025年8月6日朝刊掲載)
父の英雄さんは長崎市相生町出身。1945年8月9日、家族と滞在していた上海から長崎県央の大村市の飛行場に着き、故郷の惨状を知る。当時21歳。列車を途中で降ろされ、線路を約4キロ歩いて自宅を目指し、入市被爆した。
これは67年に被爆者健康手帳を取得する際に英雄さんが書き留めた内容で、岸田さんは直接聞いていない。子どもの頃から原爆については「言うな、聞くな、触れるなという感じでした」。広島市内で就職し、家族と暮らしたが、原爆ドーム周辺には近寄りたがらなかった。96年に72歳で亡くなった。
岸田さんは、その理由がずっと気になっていた。広島市が被爆体験伝承者を募集していることを知り、仕事が落ち着いた2015年、「ゆくゆくは長崎でも」との思いを胸に養成研修を受け始めた。
当時いた約40人の被爆体験証言者に取材を重ねた。「皆さんが覚悟を持って話してくれているのが伝わった」。竹岡智佐子さん(20年に92歳で死去)の伝承者となり、その体験を原爆資料館(中区)の来館者や、小中学生たちに語ってきた。
おととしから長崎に通い、2人の被爆者の伝承者になった。池田道明さん(86)と丸田和男さん(93)。池田さんは逃げる道中に壊れた家々が燃える様子や山積みになった死体を目撃していた。丸田さんは母親を亡くした。2人の体験を聞く中で、父もこんな光景を見たんだとの実感が湧いた。「父は話さなかったのではなく、話せなかったんですね」
被爆80年に、岸田さんは父が逝った年齢になった。「被爆者がゼロになる日は必ず来る。2世としての使命感が強くなっています」と話す。7月下旬にあった原爆資料館での竹岡さんの伝承講話で、岸田さんは「今日聞いて感じたことを誰かに伝承してください」と締めくくった。広島と長崎、二つの被爆地から伝承の輪を広げる。
(2025年8月6日朝刊掲載)