×

連載・特集

戦後80年 備後の体験者 <2> シベリア抑留を強いられた 古谷巌さん(99)=三原市和田

キャンバスに刻む惨状

 キャンバスに向き合うたび、心はシベリアへ戻るという。古谷巌さん(99)=三原市和田=が自宅のアトリエで描いてきたのは、戦後の過酷な抑留体験だ。制作した油絵は約150点。旧ソ連で過ごした2年近くの記憶は、100歳を目前にした今も鮮明に残る。

極寒の地で作業

 施錠された貨車に詰め込まれ、シベリアへ向かう捕虜たち。極寒で出入りのたび外気が白い煙のように流れ込む捕虜収容所。1個のパンを十数人で分け合ったり、作業場へ隊列を組んで歩いたり。いずれも自身の経験を描いた作品だ。「当時を思い出して、一点一点、感情を表現した」と振り返る。

 1941年、15歳で満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍の一員として旧満州(中国東北部)に渡り、45年5月に関東軍へ召集されて敗戦を迎えた。旧ソ連兵の「ダモイ(帰国)」の言葉で乗り込んだ貨車が向かった先は、旧ソ連中南部ビースク市の収容所だった。

 待ち受けていたのは、劣悪な環境下での過酷な生活だった。9月から雪が舞うシベリア。栄養失調も慢性的となり、朝起きると戦友が冷たくなっていることも珍しくなかった。感情も次第に失われたという。「常に腹三分。生き抜かなきゃいけないという気持ちだけだった」。47年5月、再び日本の土を踏むと、感情が込み上げ、自然と涙がこぼれてきた。

 帰国後は抑留体験を家族や職場の同僚に語ることはなかった。転機は定年退職後に通った絵画教室。90年ごろから描くようになり、半年足らずで40点近くを仕上げ、市内外で個展を開いてきた。

亡き友思い絵筆

 制作の原動力は、亡くなった戦友の存在だ。シベリアなどに抑留された約57万5千人のうち、死亡したのは約5万5千人とされる。「祖国への帰還もかなわず、シベリアの荒野で今も魂はさまよっている。風化させてはいけない」と、仲間の無念と戦争の悲惨さを作品に刻んできた。

 間もなく100歳を迎える。制作活動の集大成として回想記をまとめるのが目標だ。「平和、平和と叫ぶだけではなく、平和を保つために何をすべきか、真剣に考えてほしい」。4年前に絵筆はおいたものの、自宅には真っさらなキャンバスも用意してある。後世に伝え続けるため、いつでも描けるように。(岩崎新)

シベリア抑留
 1945年8月9日、旧ソ連は日ソ中立条約を破棄して旧満州へ侵攻した。日本が無条件降伏のポツダム宣言を受諾した後に旧満州や朝鮮半島で日本兵や民間人を拘束し、シベリアなどの収容所へ移送。極寒の地で鉄道や道路建設、森林伐採などさまざまな労働を課した。抑留期間が10年以上の人もいた。

(2025年8月6日朝刊掲載)

年別アーカイブ