『生きて』 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表 森滝春子さん(1939年~) <2> 家族
25年8月6日
父も祖父も倫理学者
≪父市郎、母しげ、7歳違いの兄健一郎と三つ上の姉安子の家庭に1939年誕生。その後弟良次郎が生まれた≫
姉は明るく活発で、誰とも打ち解ける人。私は人見知りで内気。性格は真反対の仲良し姉妹です。2016年に亡くなった兄(岡山大名誉教授)は東京大を卒業後、再び学士入学して働きながら地理学を修めたぐらいですから、父似の学究肌でした。
≪母方の祖父は、広島高等師範学校(現広島大)の創設とともに教授として着任した倫理学者の西晋一郎。京都学派の祖、西田幾多郎と並び「両西」と呼ばれた哲学研究の泰斗≫
最初は白島(現中区)に住みました。幼い頃の最初の記憶は、祖父母の家です。庭が泉邸(現在の縮景園)と隣り合わせで、よく遊んでいました。広島県立美術館(中区)の駐輪場に「西晋一郎博士旧宅之跡」と刻まれた石碑が立っています。
父は君田村(現三次市)の農家に生まれました。広島高師を卒業後、京都大哲学科に入り直して英国倫理学を専攻し、研究者として広島高師に赴任しました。父にとって母は、西という師のまな娘でした。
母は豊かな感性の持ち主で、宮沢賢治の物語文学を愛し、よく読み聞かせてくれました。一緒に夜空を見上げ、星座を教えてくれました。同時に、社会の矛盾に対する視座や発する言葉は父以上に鋭かった。自分の父が「国体論」を主導する研究者だったことや、夫が戦時協力する側にいたことも冷徹に受け止める人でした。
≪物心がついた頃、既に日本は戦争のさなかだった≫
4、5歳の時だったかな。かまどの上に大豆があるのを見つけ、はい上がって口に入れようとしたら、父にこつん、と軽く頭をたたかれました。常に穏やかな父に怒られたのは、唯一あのときだけ。貴重な食べ物を1人で食べたことへの罪悪感―。「戦時」を幼いなりにも痛切に感じていました。
(2025年8月6日朝刊掲載)