緑地帯 中沢啓治 「はだしのゲン」と私① 暗い無知の目
25年8月6日
昭和38年に上京して漫画を描く生活を続けて15年を迎える。その間、酒場や会合で「お郷里はどこですか?」と聞かれ「広島市です」と答えると決まって「原爆ですね。被爆しましたか?」と聞く。
「ええ」と答えると複雑な色合いを含んだ視線が走る。この瞬間が私には、いまだにいやで暗い気持ちになる。上京して間もないころ、仲間内で、被爆した体験を話したところ座がシラケて、空々しいふん囲気になり、私を見る目が変わった。私は、何が原因か深く考えなかったが、のちに同じ被爆者の方と話す機会があって事情がのみ込めた気がした。
「東京では、被爆者とわかるとそばに寄るのもいやがって、まるで伝染病がうつる感覚で見る人がいるんですよ」と寂しい苦笑まじりに話してくれた。
そんな遭遇は多々あった。革新的な運動をやり、知識を持った女の人が、私の女房に向かって「よく被爆者と結婚しましたね。原爆病で早く死ぬのに……」と憶(おく)面もなく聞き、女房と私を、あ然とさせ、怒らせた記憶も新しい。
広島の地では22年間生活して、友人、隣人は、被爆の体験者ばかりで、原爆という言葉は抵抗なく話したが、東京の地は歳月が過ぎ去るほど曲折した目で見られ、原爆の実相が伝わっていないことを思い知った。楽天的な性格だが、上京して原爆という言葉は禁句になった。
書店のたなに並んだ原爆関係の資料、文学、詩集は見るのもいやで、目をそらした。毎夏、「ことしは原爆病院で何名死亡……」と新聞報道されると不安と恐怖ともつかない暗い気持ちになって数年間、原爆関係の記事は、一切読まず伏せた。
上京以来、原爆の文字と言葉を憎悪して逃げ回り、原爆、原爆と言われる度に何か自分が悪いことをしたような負い目の気持ちで、ただ娯楽漫画を描くことに没頭した。そして一時期まったく無口になった時がある。街頭で出会う原水禁運動の人たちを見て、よく堂々とやれるものだとうらやましく思う半面、一般の人にはわかるもんかと冷ややかな目で見ていた。
そんな精神的状態だから、同県人だと言われると原爆の話題が出ないようにと願う気持ちでいた。ましてや自分が原爆をテーマにした漫画を描くとは夢にも思っていなかった。(漫画家)
被爆80年にちなみ、1976年に掲載した中沢さんの「緑地帯」を再掲します。表現は掲載時のままにしています。
(2025年8月6日朝刊掲載)
「ええ」と答えると複雑な色合いを含んだ視線が走る。この瞬間が私には、いまだにいやで暗い気持ちになる。上京して間もないころ、仲間内で、被爆した体験を話したところ座がシラケて、空々しいふん囲気になり、私を見る目が変わった。私は、何が原因か深く考えなかったが、のちに同じ被爆者の方と話す機会があって事情がのみ込めた気がした。
「東京では、被爆者とわかるとそばに寄るのもいやがって、まるで伝染病がうつる感覚で見る人がいるんですよ」と寂しい苦笑まじりに話してくれた。
そんな遭遇は多々あった。革新的な運動をやり、知識を持った女の人が、私の女房に向かって「よく被爆者と結婚しましたね。原爆病で早く死ぬのに……」と憶(おく)面もなく聞き、女房と私を、あ然とさせ、怒らせた記憶も新しい。
広島の地では22年間生活して、友人、隣人は、被爆の体験者ばかりで、原爆という言葉は抵抗なく話したが、東京の地は歳月が過ぎ去るほど曲折した目で見られ、原爆の実相が伝わっていないことを思い知った。楽天的な性格だが、上京して原爆という言葉は禁句になった。
書店のたなに並んだ原爆関係の資料、文学、詩集は見るのもいやで、目をそらした。毎夏、「ことしは原爆病院で何名死亡……」と新聞報道されると不安と恐怖ともつかない暗い気持ちになって数年間、原爆関係の記事は、一切読まず伏せた。
上京以来、原爆の文字と言葉を憎悪して逃げ回り、原爆、原爆と言われる度に何か自分が悪いことをしたような負い目の気持ちで、ただ娯楽漫画を描くことに没頭した。そして一時期まったく無口になった時がある。街頭で出会う原水禁運動の人たちを見て、よく堂々とやれるものだとうらやましく思う半面、一般の人にはわかるもんかと冷ややかな目で見ていた。
そんな精神的状態だから、同県人だと言われると原爆の話題が出ないようにと願う気持ちでいた。ましてや自分が原爆をテーマにした漫画を描くとは夢にも思っていなかった。(漫画家)
被爆80年にちなみ、1976年に掲載した中沢さんの「緑地帯」を再掲します。表現は掲載時のままにしています。
(2025年8月6日朝刊掲載)