『論』 戦後80年 被爆者と裁判
25年8月7日
問われ続ける 責任の所在
■論説委員 森田裕美
被爆者の戦後を考えるとき、司法の場での闘いは欠かせない。米国が投下した原爆に焼かれ、肉親を奪われ、生きるすべを失った人々は裁判を通して窮状を訴え、核兵器の非人道性を明らかにしてきた。それは自ら援護の道を切り開くと同時に、核兵器を二度と使わせてはならないと世に知らしめる運動でもあった。原爆を巡る裁判の歩みが、今に問うものは―。
戦後80年を機に、岩波文庫に収められた大田洋子の「夕凪の街と人と」を久しぶりに読み、はっとした。被爆8年後の広島を描いた小説の最終章に登場するのは、原爆投下という国家行為の違法性を問い、損害賠償請求訴訟を準備する弁護士である。主人公の作家は、その熱情にかすかな救いを見いだす。
大田は先の展開を予感していたのだろうか。モチーフは1955年4月に提起された「原爆裁判」。昨年のNHK連続テレビ小説「虎に翼」に取り上げられ、注目した人も多かろう。広島と長崎の被爆者たち5人が、サンフランシスコ平和条約で米国への賠償請求権を放棄した日本政府を提訴。主導したのは被告弁護を担当した岡本尚一さんだった。
63年の東京地裁判決は賠償請求を棄却したものの、原爆が戦闘員非戦闘員を問わず無差別に殺傷▽人体に与える苦痛や残虐性ははなはだしい―などと指摘し国際法の根本理念に違反するとした。加えて、日本政府の被害者救済は不十分として立法での援護を求めた。
原爆の非人道性を国際法に照らした画期的な判断といえよう。核兵器の使用・威嚇は「一般的に国際法違反」とした96年の国際司法裁判所(ICJ)の勧告的意見や核兵器禁止条約にも生かされた。国内では57年に原爆医療法、68年に被爆者特別措置法が施行され、後の被爆者援護法につながった。
原爆と政府への憤怒
しかし原爆は後々まで被爆者をさいなむ。今度は、政府による援護の「範囲」を巡り裁判が続いた。政府が原爆被害を、狭い範囲でのみ捉えようとするからだ。
69年、広島で被爆した桑原忠男さんが原爆医療法に基づく原爆症認定申請の却下処分取り消しを求めて広島地裁に提訴(桑原訴訟)、73年には被爆教師として平和教育に尽くした石田明さんも同地裁に訴えた(石田訴訟)。桑原訴訟は79年の二審も原告敗訴だったが、石田訴訟の一審判決(76年)は石田さんの訴えを全面的に認めた。国の戦争責任や原爆被害の特殊性を認めた上で、同法は通常の社会保障法と異なり「国家補償法の側面も有する」と判断した。
石田さんが残した著書には、自らの健康を奪った原爆と、その責任を認めない政府の非情さへ憤怒がつづられている。自身の疾病を原爆のせいだと政府に認めさせる行為を、人間が同じ体験を繰り返さないための「被爆者の責任と義務」と捉えていたようだ。
原爆症の認定を巡っては、その後も被爆者個人が原告となる訴訟が各地で相次いだ。ただ被爆者側が勝訴しても抜本的な援護策見直しには至らない。政府は被爆者の訴えを個別の問題としてのみ捉えていたのだろう。2003年からは全国で集団訴訟が提起され、被爆者側の相次ぐ勝訴が、政府に認定基準の見直しを迫った。石田訴訟をはじめ数々の被爆者裁判を支え、広島訴訟の弁護団長も務めた佐々木猛也弁護士(85)は「被爆者が裁判を通してわが身をさらして原爆の被害がいかなるものかということを国内外に知らしめた意義は大きい」と振り返る。広島訴訟の判決は、原告41人全員勝訴。06年8月4日、「8・6」を前に世界中から人々が集う被爆地での判決は、当時現場で取材した筆者にも、忘れられない裁判となった。
国家視点優先の歴史
司法判断によって政府が重い腰を上げる―。それは在外被爆者を巡る訴訟でより顕著だった。先駆けとなったのは、広島で被爆し治療を求めて70年に密入国した在韓被爆者孫振斗(ソン・ジンドウ)さんの裁判である。被爆者健康手帳交付を求めた裁判は78年、最高裁が原爆医療法に「国家補償的配慮が制度の根底にある」とし、日本の植民地下にあった朝鮮人被爆者に対する救済責任を示唆するものだった。
しかし95年施行の被爆者援護法も適用は日本国内のみ。ひとたび海を渡ると被爆者でなくなる理不尽さを問い、立ち上がったのは日本の市民団体の支援を得た在韓被爆者だ。援護法に基づく健康管理手当支給などを求め、98年に郭貴勲さんが大阪地裁に提訴するとほかの在韓被爆者やブラジル、米国の被爆者も続いた。
またもや度重なる敗訴で対応を迫られた政府は、訴訟で争った部分のみの手直しを繰り返した。手帳、手当、医療費給付…。決着に時間がかかり、その間に多くの被爆者が亡くなった。田村和之広島大名誉教授(行政法)は「政府は敗訴を受け入れてなお、裁判で指摘されたこと以上に援護を進めたくないという頑強な認識がある」と見る。その上で被爆者裁判が問うのは「政府が原爆被害をどう捉えるか」だと語る。
被爆者を援護することは、原爆被害とその原因となった戦争の責任に向き合うことだ。米国に原爆投下の責任を問い、核兵器を廃絶することとも表裏一体である。
原爆が投下された直後、日本政府は無差別性や残虐性を断じ、「国際法及び人道の根本原則を無視」しているとして米国に強く抗議した。しかし米国との平和条約や安保条約を結んだ後の「原爆裁判」では、「原爆使用を違法とする国際法がなかった」として争った。
被爆者の裁判を通して見えてくるのは、政府が被害を受けた人間よりも、日米関係など国家の視点を優先してきた歴史である。
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元広島市長・平岡敬さんに聞く
人間としての権利回復の闘い
中国新聞記者として在韓被爆者の窮状をいち早く報じ、その後も被爆者の司法での闘いを見つめてきた元広島市長の平岡敬さん(97)。被爆者裁判の歩みを「人間としての権利回復の歴史」と見る。今にどう生かすべきか聞いた。
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国が始めた戦争による被害を国が補償するのは当然だが、それがなされない以上、被爆者は裁判に訴えるしかない。被爆者の裁判は原爆に奪われた人間性の回復の歴史である。同時に、戦争の責任を認めず戦争犠牲者への補償に消極的な国の考えとの闘いの歴史だったといえる。
1967年に「明治100年」を振り返る連載をし、終盤に「原爆裁判」を取り上げた。多くの血が流れた近代史の陰の部分をきちんと記録しておくべきだと考えたからだ。原爆投下を「国際法に違反する」とした東京地裁判決をはじめ関連資料を読み込み、当時の裁判長も取材した。この経験は後に広島市長としてICJで陳述した際に生きた。原爆裁判を踏まえ、市民を大量無差別に殺傷し今日に至るまで苦痛を与え続ける核兵器の使用が、国際法に違反することは明らかだと訴えた。
孫振斗裁判は個人の立場で支えた。日本の植民地支配下で原爆に遭い、見捨てられている韓国人被爆者を放っておけなかった。裁判というものは原告の訴えを証拠に基づいて論じる。原爆が人間に何をもたらしたか、被爆者はなぜそのような目に遭わねばならなかったのか、事実を積み上げて責任の所在を明確にする意味がある。
被爆者が権利を回復するには、大変な時間と労力が必要となる。だからこそ原因となる戦争をなくし核兵器をなくすしかない。被爆者裁判が語る教訓だ。
戦争を始めるのは支配する側の国家であり、戦争で亡くなるのは被支配者の市民である。こうした矛盾、社会の構造的問題をなくしていく。それこそが、これからなすべき「継承」ではないか。
ひらおか・たかし
大阪市生まれ。1937年朝鮮半島に家族で移り少年期をソウルで過ごす。45年9月広島に引き揚げ。早稲田大卒業後、中国新聞社入社。編集局長、中国放送社長などを経て91年から広島市長を2期8年。広島市西区在住。
(2025年8月7日朝刊掲載)