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[被爆80年] 惨禍越え車部品製造に活路 住野工業とヒロテック 留め具メーカーや鉄工所から参入

広島の基幹産業を下支え

 米軍による原爆投下で広島の街が破壊され、6日で80年。あまたの市民が命を落とし、経済活動が失われた。その惨禍を乗り越えて自動車部品の製造に転じ、今日の基幹産業を支えるメーカーがある。焼け野原から立ち上がった人々の復興への思いと、ものづくりへの情熱は脈々と受け継がれている。(口元惇矢)

 「住野工業伸銅部」と記された、ひときわ高い煙突が焦土となった街にそびえる。広島に入った米戦略爆撃調査団が、爆心地から約1・7キロ北西の打越町(現西区横川新町)で1945年11月7日に撮影した写真だ。

 その場所に「あの日」まであったのは、足袋が脱げないようにする金属製の留め具「こはぜ」を作っていた会社。現在、西区商工センターに本社を構える自動車部品メーカーの住野工業である。

 住野工業は06年に創業し、35年にこはぜの専門工場を打越町に建てた。こはぜで国内トップシェアの4割を占めるまでに成長した。しかし、戦況の悪化を受け、住野正博社長(46)の曽祖父で初代社長の重太郎さんは、吉田町(現安芸高田市)へ会社の疎開を決意。45年8月6日は吉田町にいたため難を逃れたが、広島市の本社は壊滅した。

 甚大な被害を受けながらも、重太郎さんは47年に工場を再建し、こはぜの生産再開にこぎ着けた。住野社長は「こはぜに対する情熱と復興への思いが強かったのだろう」と推し量る。戦後、一時的にこはぜの需要は回復したが、足袋を履く人が減る中で、少しずつ落ち込んでいった。

東洋工業から依頼

 活路を模索する中、転機は訪れた。50年代後半に東洋工業(現マツダ)から自動車部品の量産を頼まれた。ねじやボルトを締める際、部材との間に挟む「ワッシャー」と呼ばれる小さな金属板だった。「こはぜ製造の特殊技術を生かして、ワッシャーを造ってくれないかとの申入がありました」(原文のまま)。重太郎さんと会社を立て直した元専務の山本潔さんが追想録に残している。量産を決断し、60年に本格的に部品の生産を始めた。

 水田昇会長(65)は「材料は違うが、打ち抜くという工程は同じ。そこから自動車部品に入っていったのではないか」と推察する。

 当時は高度経済成長とともに自動車が普及していった時期。東洋工業も生産台数を増やし、地場の協力部品メーカーとの取引を広げていった。自動車用ドア製造のヒロテック(佐伯区)も焼け野原から再起を遂げ、東洋工業に製品を供給した企業の一つである。

 前身の鵜野製作所は32年、鵜野俊雄相談役(89)の父徳夫さんが東観音町(現西区)で鉄工所として創業した。回転いすの金具や金庫、呉市で建造された戦艦大和の調度品などを手がけたが、事業は長続きしなかった。中国から復員して間もない46年暮れ。焼け野原になった広島で、東観音町に工場を再建した。被爆後で資材の調達もままならない中、進駐軍のドラム缶を安く仕入れ、折り畳みいすの金具やセメント瓦の型枠を造り始めた。

 さまざまな仕事を請け負う中、52年に東洋工業から初めて受注したのが部品箱だった。これをきっかけに54年、三輪トラックのドアの生産を頼まれた。鵜野相談役は「父は、今後伸びていくのはマツダであり自動車部品だと考え、他のことに見向きもしなかった」と振り返る。

グローバル企業に

 その後、他の自動車メーカーのドアも造るようになったが、鵜野相談役は「原点はマツダから仕事を受注できたこと」と強調する。大切にしたのは技術力と品質、そして信頼性だ。こうして培った強みが、海外メーカーからの受注にもつながった。「マツダ車の品質を見れば分かってもらえる」と胸を張る。今では海外7カ国にグループ13社を構えるグローバル企業に成長した。

 住野工業もマツダの成長に合わせるように規模を拡大した。現在は中国やタイにも工場がある。こはぜの生産は2016年に終えたが、今も本社に生産用の機械を展示している。「自動車部品に大きくかじを切ったから今がある」。住野社長は重太郎さんや当時の従業員たちの苦難と情熱に思いをはせる。一つ一つの部品は小さいが、こはぜが足元を守るように、広島の自動車産業の歩みを支えている。

(2025年8月7日朝刊掲載)

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