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被爆の惨状継承 切なる思い 画家丸木夫妻 「原爆の図」 廿日市で展示 連作のうち第1部「幽霊」と第4部「虹」

 広島市安佐北区出身の画家丸木位里と、妻の俊が描いた連作「原爆の図」のうち2点が、はつかいち美術ギャラリー(廿日市市)で開催中の平和美術展で展示されている。夫妻は終戦直後に連作を構想し、占領軍による報道規制の残る1950年代初め、全国巡回展に踏み切った。実態を伝えようと奔走した切なる思いが、被爆80年の夏、見る者に迫る。(福田彩乃)

 「原爆の図」を所蔵する原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)の岡村幸宣学芸員が展示を構成した。夫妻が30年以上を費やした全15部のうち、第1部「幽霊」と第4部「虹」が並ぶ。広島での展示は2018年以来で、「幽霊」は23年に劣化の修復を終えたばかり。いずれも連作の中で重要な意味を持つ。

 1950年に完成した「幽霊」は、夫妻が最初に手がけた「原爆の図」で、爆風や熱線の被害を表す。衣服は焼け落ち、髪は縮れ、皮膚の垂れた腕を上げてさまよう人々。背景はない。夫妻は焼け跡の風景ではなく、人間の姿に焦点を当て、理不尽に命を奪う原爆の惨状を描き出した。

 画布には下図の跡が残り、腕の位置などを細かく調整したと推察される。「よりリアルに被害を伝えようと、試行錯誤したのだろう」と岡村学芸員はみる。全国的にはまだ、被害の実態が知られていない時代だった。

 「幽霊」を含む初期3部作を仕上げた夫妻は50年、広島で展覧会を開く。翌年に第4部「虹」を発表した。題名通り、黒い雨の後に現れた虹が画面の隅に描かれ、長期にわたる放射線の影響を暗示する。直接的な被害を表現した第1部に対し、一歩踏み込んだ形だ。

 「虹」には妊婦や兵隊に加え、米兵捕虜が描写されている点も特筆に値する。岡村学芸員は「3部までは群像としての被爆者、4部では背景の分かる人々を描いた。広島で見聞きしたことを踏まえ、具体性が増したのでは」と話す。連作では後に米兵捕虜や朝鮮半島出身者の被爆死が画題となる。「虹」は、夫妻が早い時期から複眼的な視点を持っていたことを示す。

 会場では、巡回展を開いた際のポスターやチラシも豊富に紹介。俊が被爆直後の8月下旬に描いた市内のスケッチや、80年に刊行した絵本「ひろしまのピカ」の原画も並ぶ。展示品を総覧すると、原爆を表現し続けた丸木夫妻の姿が浮かび上がる。

 展覧会の題名は「原爆の図―被爆体験の継承」。ヒロシマをいかに伝え、これからどう伝え継いでいくか―。夫妻の軌跡を通じ、被爆80年の先を問う展覧会でもある。

 位里の母、スマが被爆時を思い出して描いた絵も展示する。今年4月、原爆の図丸木美術館で見つかった新資料も披露。52年に広島市で発足した「原爆被害者の会」の最初の機関紙「ヒロシマ通信」や、詩人の峠三吉たちからの書簡が並ぶ。

 45年9月に広島などを襲った枕崎台風の被害を振り返るパネル展も同時開催している。

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 中国新聞社などの主催で17日まで。会期中無休、無料。

原爆の図
 水墨画家の丸木位里(1901~95年)と、油彩画家で妻の俊(12~2000年)が共同制作した。1950~82年発表の全15部。2人が見た被爆直後の広島の惨状や被爆者から聞き取った話を基に描いた。いずれも縦1・8メートル、横7・2メートル。第1~14部は原爆の図丸木美術館、第15部「ながさき」は長崎原爆資料館(長崎市)が所蔵する。

(2025年8月7日朝刊掲載)

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