緑地帯 中沢啓治 「はだしのゲン」と私② 母を失った怒り
25年8月7日
人間は、自分を中心にごく身近に事が起き、降りかかって来て初めて事の重大さを知り、考え、行動するのではないかと思う。
母が原爆病院に2年間、入院し、2年間自宅治療を続け4年間の闘病生活で昭和41年に死亡した。母と私は、原爆の修羅場の中を逃げのび、焼け跡をさまよい、食糧の買い出しと戦後の苦しい時期を共に行動した日々が兄弟の中でも特に多く、母の存在は、私にとって大きな支えでもあった。
死を知った時は足が震えて止まらなかった。被爆後、胃痙攣(いけいれん)を起こして路上に倒れたり、貧血で頭が痛いと苦しみ、ただ働き続けて脳溢血(のういっけつ)で倒れ、原爆病院には、指定病ではないから原爆手帳は役に立たず、健康保険で2年間の入院を許され、出費が重なって次兄と途方に暮れた日々が次々と思い出されて、葬儀の帰路についた。
葬儀の場で次兄が怒っていて、話を聞くとABCCが、母の死体を解剖させてくれと執ように食いさがり、追い返したと聞き、私も腹を立てた。母がABCCで血ばっかり抜かれ、体中を調べられ、何一つ治療はしてくれなかったとボヤき、原爆の日に路上で生まれた赤ん坊が4カ月で死んだが、ABCCはその後、その妹を6年も捜し続け、たずね続けて来たことが思い出され、さんざん原爆で苦しめられ、死んでまで原爆の材料にされてたまるかと言う気持ちが私には強かった。
そして原爆に関して逃げていた気持ちが怒りに変わった。さらに一段と怒りが突き上げたのは比治山の火葬場で母の骨を見た時だった。私は被爆後の焼け跡で、いやと言うほど死体を焼く姿を見て、人体に添って骨が残る事はわかっていたが、母の骨は白い粉のように点々となって骨らしい骨はなかった。
この時は本当にショックだった。重病を患うと骨がなくなるとか、東京でも被爆者を火葬にした時に骨がなかった事実を聞いたが、目の前にその事実を目撃した時は平静を装った振りをしていたが、腹の中は煮え返る思いだった。原爆のやつは母の骨まで食いつぶしたかと腹が立って仕方がなかった。
帰路に向かう汽車の中で、たまらないほど、空虚な気持ちと、反対に言ってやる、アメリカにも日本政府にも原爆の怨(うら)みを吐き出してやらないと気が済まんと思った。 (漫画家)
被爆80年にちなみ、1976年に掲載した中沢さんの「緑地帯」を再掲します。表現は掲載時のままにしています。
(2025年8月7日朝刊掲載)
母が原爆病院に2年間、入院し、2年間自宅治療を続け4年間の闘病生活で昭和41年に死亡した。母と私は、原爆の修羅場の中を逃げのび、焼け跡をさまよい、食糧の買い出しと戦後の苦しい時期を共に行動した日々が兄弟の中でも特に多く、母の存在は、私にとって大きな支えでもあった。
死を知った時は足が震えて止まらなかった。被爆後、胃痙攣(いけいれん)を起こして路上に倒れたり、貧血で頭が痛いと苦しみ、ただ働き続けて脳溢血(のういっけつ)で倒れ、原爆病院には、指定病ではないから原爆手帳は役に立たず、健康保険で2年間の入院を許され、出費が重なって次兄と途方に暮れた日々が次々と思い出されて、葬儀の帰路についた。
葬儀の場で次兄が怒っていて、話を聞くとABCCが、母の死体を解剖させてくれと執ように食いさがり、追い返したと聞き、私も腹を立てた。母がABCCで血ばっかり抜かれ、体中を調べられ、何一つ治療はしてくれなかったとボヤき、原爆の日に路上で生まれた赤ん坊が4カ月で死んだが、ABCCはその後、その妹を6年も捜し続け、たずね続けて来たことが思い出され、さんざん原爆で苦しめられ、死んでまで原爆の材料にされてたまるかと言う気持ちが私には強かった。
そして原爆に関して逃げていた気持ちが怒りに変わった。さらに一段と怒りが突き上げたのは比治山の火葬場で母の骨を見た時だった。私は被爆後の焼け跡で、いやと言うほど死体を焼く姿を見て、人体に添って骨が残る事はわかっていたが、母の骨は白い粉のように点々となって骨らしい骨はなかった。
この時は本当にショックだった。重病を患うと骨がなくなるとか、東京でも被爆者を火葬にした時に骨がなかった事実を聞いたが、目の前にその事実を目撃した時は平静を装った振りをしていたが、腹の中は煮え返る思いだった。原爆のやつは母の骨まで食いつぶしたかと腹が立って仕方がなかった。
帰路に向かう汽車の中で、たまらないほど、空虚な気持ちと、反対に言ってやる、アメリカにも日本政府にも原爆の怨(うら)みを吐き出してやらないと気が済まんと思った。 (漫画家)
被爆80年にちなみ、1976年に掲載した中沢さんの「緑地帯」を再掲します。表現は掲載時のままにしています。
(2025年8月7日朝刊掲載)