『生きて』 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表 森滝春子さん(1939年~) <3> 父の被爆
25年8月7日
失明の危機 口述で記録
≪戦況が厳しさを増した1945年春、広島県北へ疎開した≫
43年に白島(現広島市中区)から翠町(現南区)へ転居していました。食糧は不足し、警報が鳴ると庭に掘った防空壕(ごう)へ逃げる日常です。その頃、知り合いで三次市から時折わが家に食糧を運んでくれる恩人がいたのですが「こんなところに子どもを置いてはならない」と私と弟を連れて帰りました。三次では警報音が聞こえることはなく、うれしかったですね。
8月6日は父の古里、君田村(現三次市)にいました。母、姉と弟と一緒。兄は東城(現庄原市)へ集団疎開中でした。
≪父市郎は、広島高等師範学校(現広島大)の学徒派遣隊長として江波町(現中区)の三菱重工業広島造船所へ学生を動員していた。爆心地から約4キロ。砕け散ったガラス片が刺さり右目を失明する≫
学生が交代で懸命に看護し、混乱の極みの中、患部を冷やす氷も調達してくれたそうです。交感性眼炎になれば、両目を失明していたでしょう。父と私たちの人生も、戦後の原水禁運動や被爆者運動も大きく違っていたはず。感謝しかありません。
父は10代から日記を付けていました。6日は「右眼を傷つきしを感じ、たゞ(だ)ちにふす」。失明の危機でもなお、学生に経過を口述筆記させていた。生真面目な人柄を思います。
≪「さいやく記」と市郎が名付けたこの時期の日記は、被爆体験が生々しい時期に「災厄」を記録した一級資料とされる≫
94年に父が他界して以降、実は所在不明になり、父への申し訳なさで胸がいっぱいでした。最近、ひょんなことから家の中で見つかり安堵(あんど)しています。
父は、日々の出来事を翌朝に記すのが日課でした。あの日の朝も、ちょうど5日の日記を書いていました。「竹槍(やり)五百本作製」。米国が原爆投下を実行に移していた頃に―。爆風でインクが飛び散り、ガラスが刺さった跡も残るページは、父の大切な形見であり、戦争の愚かさを刻む記録です。
(2025年8月7日朝刊掲載)