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各地で慰霊祭 もう戦争は結構だ/平和の大切さ 伝える/被爆体験 語り継ぐ/ただただ悲しい

 ◆原爆死没者慰霊行事(平和記念公園)
 原爆供養塔前で早朝、広島戦災供養会の役員や被爆者、遺族たち約100人が手を合わせた。南区の会社員有田佳美さん(56)は、祖父が八丁堀(現中区)で被爆し、今も見つかっていない。「ここにいるのかなと思い、毎年来ている。原爆はおじいちゃんや周りのものをたくさん奪った。使ってはならない」

 ◆広島二中原爆死没者慰霊祭(平和記念公園)
 建物疎開中に亡くなった広島二中(現観音高)の生徒たち約350人をしのび、約200人が慰霊碑前で黙とうした。当時1年生だった光成洋さん(93)=安佐南区=は原爆投下1週間前に二中から転校。「一人逃げて生き残った気がして」との思いを抱く。「これからも手を合わせ続ける」

 ◆県職員原爆犠牲者追悼(中区加古町)
 県職員や遺族たち167人が、旧県庁跡の慰霊碑前で黙とうした。胎内被爆した安佐南区の森川武則さん(79)は、県立広島病院で看護婦として働いていた姉勝美さん=当時(23)=を亡くした。「生きていたら、いろいろなことを教わりたかった。今年も会いに来たよ」と碑前で語りかけ、白菊を手向けた。

 ◆広島女子高等師範学校、付属山中高等女学校、県立第二高等女学校合同慰霊祭(中区国泰寺町)
 荒神堂境内の慰霊碑に約100人が献花した。福山市の宮沢忠彦さん(82)は、当時山中高女の生徒で建物疎開に従事していた姉彰子さんを亡くした。両親や他のきょうだいも既に他界。「家族の思いを背負い、これからも参列を続けたい」と力を込めた。

 ◆電気通信関係原爆死没者慰霊式(中区基町)
 遺族やNTT西日本の社員たち約80人が、同社中国支店基町ビルの慰霊碑前で黙とう。当時17歳の姉清美さんを失った被爆者の高野早苗さん(89)=南区=は「大きなけがを負い、火災にのまれ、手の指しか持ち帰ってやれなかった」。優しかった姉に思いをはせ、「もう戦争は結構だ」と訴えた。

 ◆広島赤十字・原爆病院原爆殉職職員ならびに戦没職員慰霊式(中区千田町)
 職員たち約120人が慰霊碑に黙とう、献花した。古川善也院長(70)は昨年治療した被爆者の平均年齢が85・3歳と、高齢化が進んでいる現状を説明。「世界初の原爆病院の一員として、被爆の実相を後世に伝え、核兵器の廃絶に寄与していく」と述べた。

 ◆日本損害保険協会中国・四国支部「友愛の碑」献花参拝(中区中島町)
 損害保険会社9社の社員約100人が平和大通り南側の碑前で献花し、犠牲者89人を悼んだ。原爆投下の時刻に、原爆慰霊碑の方角を向いて1分間黙とう。同支部の中村一樹委員長(57)は「89人の命が失われた歴史を忘れず引き継いでいく」と誓った。

 ◆広島郵便局原爆殉職者慰霊祭(南区比治山町)
 遺族や職員たち約60人が慰霊碑のある多聞院で黙とう。288人の犠牲者を悼んだ。南区の自営業福原不二雄さん(80)は父時次郎さんを亡くし、遺骨も見つからないまま。戦後は母が力仕事をし、子ども2人を育て上げた。「今も世界では簡単に命が失われている。相手を敬い、平和の大切さを考えて」と願った。

 ◆府中町原爆死没者慰霊式・平和祈念式(府中町本町)
 町役場そばの慰霊碑前であり、遺族や小中学生、住民たち約250人が参列。花束と折り鶴をささげた。府中中3年向井瑠依さん(15)と府中緑ケ丘中3年竹原蓮夏さん(14)が「未来をつくる人たちへ、戦争の恐ろしさや平和の大切さを伝える」とする「平和へのメッセージ」を読み上げた。

 ◆湯来原爆死没者慰霊式・湯来中学校区「平和の集い」(佐伯区湯来町)
 湯来原爆被爆者の会の会員と湯来東小の児童、湯来中の生徒たち約150人が参列。黙とうで犠牲者を悼み、献花した。同会の被爆者はこの1年で15人亡くなった。湯来東小6年の向井柚子香さん(11)は「戦争は何も得ることはないと次の世代に伝えていく」と誓った。

 ◆原爆死没者追悼・平和祈念式典(大竹市)
 市総合市民会館にある慰霊碑「叫魂(きょうこん)」前であり、被爆者や遺族たち約250人が参列。この1年で亡くなった20人を含む2579人の死没者名簿を奉納した。市原爆被害者友の会の賀屋幸治会長(72)は式辞で「反核、反戦、平和への誓いは不変」と強調。代表の小中高生たちが折り鶴をささげた。

 ◆比治山女子中学・高等学校原爆死没者追悼式(中区基町)
 中国軍管区司令部跡(旧防空作戦室)そばの慰霊碑前に、比治山女子中高の生徒や教員たち約40人が参列。司令部に動員され「広島壊滅」の第一報を発信した先輩たち73人と教員2人を悼んだ。高校2年竹田夏萌さん(17)は「夢を奪われた先輩の苦しみや悲しみを伝えていく」と誓った。

 ◆国土交通省(旧内務省)原爆殉職者慰霊式(平和記念公園)
 原爆ドームそばの慰霊碑前で、遺族や職員約70人が黙とうした。岡山市南区の高柳綾男さん(86)は6歳で父登さんを亡くした。登さんは建物疎開中に被爆し、遺骨も見つからなかった。「原爆から1年くらいは父の死を受け入れられず、近くの駅で父の帰りを待っていた」と振り返っていた。

 ◆川内・温井義勇隊追悼法要(平和記念公園)
 川内村(現安佐南区)の温井地区から動員されて爆心地付近で全滅した約200人をしのび、遺族たち約60人が手を合わせた。遺族会の柳原有宏会長(82)=同区=は母満子さん=当時(37)=を亡くした。「母を含め遺骨が見つかっていない人は多い。生きた証として遺影を集め、次代に継ぎたい」と話していた。

 ◆県動員学徒等犠牲者の会原爆死没者追悼式(平和記念公園)
 遺族や高校生約100人が原爆ドームそばの慰霊塔前で手を合わせた。広島市下中町(現中区)の広島中央電話局に動員中、同級生たちを亡くした寺前妙子さん(95)=安佐南区=は「若くして日常を奪われた仲間を思うと残念でならない。生かされた分、もう少し頑張りたい」と話した。

 ◆鈴張地区遺族会慰霊祭(安佐北区安佐町)
 「強い意志を持って戦争の悲惨さを伝えていきたい」「何げない日常の生活を大切にしていく」。鈴張小近くの慰霊碑前で、児童代表が作文を読み上げた。遺族たちを含め約50人が犠牲者を悼み、伊井稔会長(88)は「不戦の誓いを新たにして、平和の尊さを語り継ぐのが使命」と語っていた。

 ◆広島市立広島商業高原爆死没者慰霊祭(平和記念公園)
 爆心地近くでの建物疎開中に亡くなった市立造船工業学校の生徒たちを悼み、流れをくむ市立広島商業高の生徒たち約50人が花をささげた。当時、工業学校1年だった森本啓稔さん(93)=中区=は「ここに来て、同級生たちに語りかけるのが私の務め。来年も必ず来る」と力を込めた。

 ◆広島大付属中・高校原爆死没者・戦没者慰霊追悼の集い(南区翠)
 前身の広島高等師範学校付属中の慰霊碑に、生徒たち約50人が花や水をささげた。小野章校長が「戦争や核使用という過ちを二度と繰り返さない思いを共有したい」とあいさつ。高校1年の矢沢輝一さん(16)は「80年前に何があったか、想像することに意義があると思う」と話した。

 ◆嵐の中の母子像供養式(中区中島町)
 市地域女性団体連絡協議会の役員や会員約50人が、原爆資料館の南側にある像に花束を手向けた。山田豊子会長(74)=安佐北区=は、ウクライナやパレスチナ自治区ガザで戦闘が続く中「子どもたちの姿を見ると胸が痛む」と言う。「被爆80年の今年、改めて行動を起こす」と力を込めた。

 ◆県立広島第一高等女学校原爆犠牲者追悼式(中区小町)
 卒業生や後身の皆実高生徒約190人が参列。当時4年だった姉淳子さんを亡くした久保智照さん(92)=西区=は「遺骨が見つからず、どんな最期だったのか」と無念さを語る。生徒会長の2年洲浜菜緒さん(16)は「戦争は悲しみしか生まない。被爆体験を語り継ぐのは私たち」と誓った。

 ◆広島市女職員生徒原爆死没者慰霊式(中区中島町)
 広島市立第一高等女学校(現舟入高)の卒業生や遺族たち約400人が、建物疎開中などに犠牲となった生徒と教職員計676人の冥福を祈った。参加者は両校の校歌を合唱。広島舟入・市女同窓会の市本秀則会長(65)は「誰もが被爆体験を自分ごととして捉えなければならない」と訴えた。

 ◆旧制広島市立中学校原爆死没職員生徒慰霊祭(中区西白島町)
 流れをくむ基町高にある慰霊碑前で開かれ、約200人が参加した。長崎市から訪れた鴛渕(おしぶち)恒雄さん(90)は、当時1年生の兄、駿郎さんを亡くした。「祖母宅に預けられていた兄は食べ物にも不自由し、毎日腹を減らしながら学び、死んでいった。ただただ悲しい」と手を合わせた。

 ◆県立広島工業高原爆犠牲者慰霊式(南区出汐)
 建物疎開中などに亡くなった前身の県立広島工業学校の生徒と教員214人をしのび、遺族や教職員、生徒たち約150人が献花した。1年生だった兄の慰霊に毎年参列する殿岡鉄博さん(91)=安佐北区=は「来年は来られるか分からないが、慰霊行事は将来にわたって続けてほしい」と願った。

 ◆広島大原爆死没者追悼式(中区東千田町)
 遺族や大学関係者たち約60人が追悼碑に献花した。遺族代表の奥田美智子さん(67)=京都市=の父親は広島工業専門学校(現広島大工学部)での授業中に被爆し、大けがをした。80歳で亡くなるまで原爆に憤っていた。「父の悔しさを胸に、広島の原爆のことを私の地元京都で伝え続けたい」と力を込めた。

 ◆原爆犠牲新聞労働者「不戦の碑」碑前祭(中区加古町)
 中国新聞社など新聞・通信7社の犠牲者計133人の名を刻む碑に、遺族や新聞労組関係者たち約60人が手を合わせた。合同新聞社(現山陽新聞社)の記者だった父侃治(かんじ)さんを亡くした兵庫県宝塚市の藤間昭代(てるよ)さん(83)は「ここに来ると父に会える気がする」と声を詰まらせた。

(2025年8月7日朝刊掲載)

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