語り継ぐ この先も 思いを孫・ひ孫に栃木県遺族代表 小松さん初参列
25年8月7日
栃木県の遺族代表で那須烏山市に住む被爆者の小松宏生(ひろみ)さん(91)は、孫とひ孫の計3人を連れて初めて広島市の平和記念式典に参列した。原爆で父を失い、戦後は母と2人で広島を離れた。偏見や差別を恐れて長く被爆体験を口にすることはなかった。一方で、少しずつ気持ちも変化してきたという。被爆80年のことし、ひ孫たちにつなぐ一歩を踏み出した。
原爆が投下された日、神崎国民学校(現中区の神崎小)の6年だった小松さんは吉坂村(現北広島町)に学童疎開していた。数日後、白島の自宅で被爆した母登喜栄さんが迎えに来たが、父亮造さん=当時(42)=の姿はなかった。 市中心部で父を捜し歩いた。遺体を見るのが嫌で目を背けた。母は1人で何日も捜し続けたが、遺骨さえ見つからなかった。自宅跡には画家だった父の溶けたガラス絵の塊が残っていた。
1945年の年末には母の故郷の宇都宮市へ移った。血尿や高熱に親子で苦しみ、母からはずっと「結婚に影響するから」と被爆した事実を伏せるよう口止めされていた。しかし夫と結婚する前、義母にも打ち明けた。「そんなの問題ない」と義母が言ってくれた時には心からほっとしたという。
「ただ、今思えば夫も子どもへの差別を心配したんでしょうね」。結婚後は再び、夫も自分も被爆のことを周囲に話すことはなかった。
転機は被爆50年の節目。子どもも成長した。もう封印を解こう―。体験記をつづったことをきっかけに、栃木県内の市民団体や学校から証言講話の依頼を受けるようになった。
講話会場へ送迎してくれるのは孫の沙梨さん(35)=那須烏山市。小松さんの被爆体験を聴くうちに「子どもにも伝えたい」と思うようになり、今回は長男太凰さん(10)と次男沙弥さん(7)と一緒に同行した。
小松さんのそばには、同年代のこども代表の「平和への誓い」を真剣なまなざしで聞くひ孫の2人がいた。「頼もしいですね。私たち被爆者の思いを継ぐ姿勢をしっかり見せてもらいました」。小松さんは2人の小さな手をぎゅっと握った。(山下美波)
(2025年8月7日朝刊掲載)
原爆が投下された日、神崎国民学校(現中区の神崎小)の6年だった小松さんは吉坂村(現北広島町)に学童疎開していた。数日後、白島の自宅で被爆した母登喜栄さんが迎えに来たが、父亮造さん=当時(42)=の姿はなかった。 市中心部で父を捜し歩いた。遺体を見るのが嫌で目を背けた。母は1人で何日も捜し続けたが、遺骨さえ見つからなかった。自宅跡には画家だった父の溶けたガラス絵の塊が残っていた。
1945年の年末には母の故郷の宇都宮市へ移った。血尿や高熱に親子で苦しみ、母からはずっと「結婚に影響するから」と被爆した事実を伏せるよう口止めされていた。しかし夫と結婚する前、義母にも打ち明けた。「そんなの問題ない」と義母が言ってくれた時には心からほっとしたという。
「ただ、今思えば夫も子どもへの差別を心配したんでしょうね」。結婚後は再び、夫も自分も被爆のことを周囲に話すことはなかった。
転機は被爆50年の節目。子どもも成長した。もう封印を解こう―。体験記をつづったことをきっかけに、栃木県内の市民団体や学校から証言講話の依頼を受けるようになった。
講話会場へ送迎してくれるのは孫の沙梨さん(35)=那須烏山市。小松さんの被爆体験を聴くうちに「子どもにも伝えたい」と思うようになり、今回は長男太凰さん(10)と次男沙弥さん(7)と一緒に同行した。
小松さんのそばには、同年代のこども代表の「平和への誓い」を真剣なまなざしで聞くひ孫の2人がいた。「頼もしいですね。私たち被爆者の思いを継ぐ姿勢をしっかり見せてもらいました」。小松さんは2人の小さな手をぎゅっと握った。(山下美波)
(2025年8月7日朝刊掲載)