被爆80年託す想い 松井妙子さん 伝えたい この痛み 灰を掘り拾った父の骨
25年8月7日
手を合わせた。碑(いしぶみ)に、街角に、灯籠に。被爆地広島は6日、深く長い祈りに包まれた。80年前に米軍が落とした一発の原爆は、街を壊滅させ、愛する家族やかけがえのない日常を奪った。生き抜いても、体にも心にも癒えない傷が刻まれた。「核兵器の恐ろしさを伝えていく」。決意を新たにする日にもなった。
路面電車がせわしく行き交う広島市中区の紙屋町交差点。脇道に入って辺りを見渡し、目を閉じた。跡形もなく焼け落ちた自宅がまぶたに浮かぶ。80年前、私はここで父の骨を拾ったんだ―。
三原市の松井妙子さん(95)が6日午前、子や孫と訪れた。かつての自宅跡は高層ビルに囲まれた駐車場の一角になっている。玄関先の電柱や道路の姿は変わっても、名残がある。「手前が玄関で、奥に台所があって。台所の辺りに骨があったので、食事でもしていたのでしょうか」。鮮明な記憶をたどった。
1945年8月6日午前7時半ごろ、学徒動員先の五日市町(現佐伯区)の工場に向かうため自宅を出た。家には父加藤次郎さん=当時(47)=が残っていた。8時15分に米軍が落とした原爆は西約350メートルの上空でさく裂。辺りは火の海となった。松井さんは自宅に近寄れず、可部(現安佐北区)の伯父の元に身を寄せた。
翌7日以降、伯父と一緒に市中心部に戻った。自宅跡で熱がこもる灰を手で掘ると、白い骨が出てきた。「腕で涙を拭いながら小さなつぼに入れました。この時の悲しさを忘れることはない」。中島地区の建物疎開作業に動員されていた母光子さん=同(40)=を捜し歩いたが、最期を知ることもできなかった。
間もなく広島を離れ、島根県の親戚の元に移った。写真は全て原爆で失った。月日が流れ、「顔は覚えていますが、声が思い出せなくなってきました」と声を落とす。父は自転車の練習によく付き合ってくれた。原爆が落とされる前日には小遣いで花を買い、父の机に飾った。母は俳句をたしなんだ。「私もお正月には一句を詠まないといけなくて」と懐かしむ。
この日は、平和記念公園(中区)での平和記念式典に参列し、被爆者代表として献花した。行方の分からない母のため、同じような犠牲者の遺骨が納められている原爆供養塔にも手を合わせた。近年は孫の三谷美都子さん(48)=三原市=たちが車で連れてきてくれる。「伝わっていると思います」と目を細める。
一方、現在の世界情勢に目を向けると、被爆者たちの声がどこまで届いているのかと胸が詰まる。「他人の傷や痛みなど忘れられていくだけなのでしょうか」。復興を遂げた街の片隅で、両親の無念と残された者の行き場のない悲しみが続いている。(下高充生)
(2025年8月7日朝刊掲載)
路面電車がせわしく行き交う広島市中区の紙屋町交差点。脇道に入って辺りを見渡し、目を閉じた。跡形もなく焼け落ちた自宅がまぶたに浮かぶ。80年前、私はここで父の骨を拾ったんだ―。
三原市の松井妙子さん(95)が6日午前、子や孫と訪れた。かつての自宅跡は高層ビルに囲まれた駐車場の一角になっている。玄関先の電柱や道路の姿は変わっても、名残がある。「手前が玄関で、奥に台所があって。台所の辺りに骨があったので、食事でもしていたのでしょうか」。鮮明な記憶をたどった。
1945年8月6日午前7時半ごろ、学徒動員先の五日市町(現佐伯区)の工場に向かうため自宅を出た。家には父加藤次郎さん=当時(47)=が残っていた。8時15分に米軍が落とした原爆は西約350メートルの上空でさく裂。辺りは火の海となった。松井さんは自宅に近寄れず、可部(現安佐北区)の伯父の元に身を寄せた。
翌7日以降、伯父と一緒に市中心部に戻った。自宅跡で熱がこもる灰を手で掘ると、白い骨が出てきた。「腕で涙を拭いながら小さなつぼに入れました。この時の悲しさを忘れることはない」。中島地区の建物疎開作業に動員されていた母光子さん=同(40)=を捜し歩いたが、最期を知ることもできなかった。
間もなく広島を離れ、島根県の親戚の元に移った。写真は全て原爆で失った。月日が流れ、「顔は覚えていますが、声が思い出せなくなってきました」と声を落とす。父は自転車の練習によく付き合ってくれた。原爆が落とされる前日には小遣いで花を買い、父の机に飾った。母は俳句をたしなんだ。「私もお正月には一句を詠まないといけなくて」と懐かしむ。
この日は、平和記念公園(中区)での平和記念式典に参列し、被爆者代表として献花した。行方の分からない母のため、同じような犠牲者の遺骨が納められている原爆供養塔にも手を合わせた。近年は孫の三谷美都子さん(48)=三原市=たちが車で連れてきてくれる。「伝わっていると思います」と目を細める。
一方、現在の世界情勢に目を向けると、被爆者たちの声がどこまで届いているのかと胸が詰まる。「他人の傷や痛みなど忘れられていくだけなのでしょうか」。復興を遂げた街の片隅で、両親の無念と残された者の行き場のない悲しみが続いている。(下高充生)
(2025年8月7日朝刊掲載)