実父は被爆死 義父は運動の先駆者 広島市中区の松本さん 式典初参列 過去に向き合い2人を追悼
25年8月7日
広島市中区の医師松本隆允(たかのぶ)さん(79)は6日、市の平和記念式典に初めて臨んだ。実父の清徳さんは、出生前に被爆死。亡き義父藤居平一さんは日本被団協の初代事務局長だった。「なのに私は原爆のことを考えまいとしてきたんです」。2人の父を追悼したい。向き合わねば―。節目の年に、自らに課した宿題を果たした。
午前8時15分。松本さんは被爆者・遺族席で一心に手を合わせた。「うちだけじゃない。大勢の人が原爆に日常を奪われた。ここで慰霊せねばと思っていました」。式典後、ほっとしたような表情を見せた。
広島市生まれの実父は東京帝国大(現東京大)を卒業後、古里で軍医として働いていた。1945年8月6日、27歳の時に鍛冶屋町(現中区)の自宅を出た後に被爆。広島第一陸軍病院戸坂分院(現東区)に運ばれ、13日に息絶えた。遺骨も戻らなかった。
その1週間後に松本さんは広島県十日市町(現三次市)の母光恵さんの実家で生まれた。父の死に絶望し、命を断つことも考えたらしい母は再婚。12歳ごろに実父の存在を知った。母の願いをくんで、父と同じ医師の道に進んだ。
ただ、遺児になった境遇を憂えた時期もある。いつしか過去と向き合うことを避けていた。8月6日は自宅で黙とうするだけ。原爆資料館(中区)に入ったこともない。74年に結婚した妻三鈴さんの父は偶然にも被爆者運動の先駆者だったが、その話を請うたこともなかった。
それでも昨年に日本被団協がノーベル平和賞を受賞したのは「やはり、うれしかった」。発表の半年ほど前、がん闘病中だった三鈴さんが他界していたのが無念でならない。「代わりに義父へ報告しよう」。それも参列の動機となった。
「来て良かった」と松本さんは言う。語り継いでいく使命が、私たちにはあります―。こども代表の誓いが響いた。「孫にも話しておこうか」。新たな宿題ができた。 (田中美千子)
(2025年8月7日朝刊掲載)
午前8時15分。松本さんは被爆者・遺族席で一心に手を合わせた。「うちだけじゃない。大勢の人が原爆に日常を奪われた。ここで慰霊せねばと思っていました」。式典後、ほっとしたような表情を見せた。
広島市生まれの実父は東京帝国大(現東京大)を卒業後、古里で軍医として働いていた。1945年8月6日、27歳の時に鍛冶屋町(現中区)の自宅を出た後に被爆。広島第一陸軍病院戸坂分院(現東区)に運ばれ、13日に息絶えた。遺骨も戻らなかった。
その1週間後に松本さんは広島県十日市町(現三次市)の母光恵さんの実家で生まれた。父の死に絶望し、命を断つことも考えたらしい母は再婚。12歳ごろに実父の存在を知った。母の願いをくんで、父と同じ医師の道に進んだ。
ただ、遺児になった境遇を憂えた時期もある。いつしか過去と向き合うことを避けていた。8月6日は自宅で黙とうするだけ。原爆資料館(中区)に入ったこともない。74年に結婚した妻三鈴さんの父は偶然にも被爆者運動の先駆者だったが、その話を請うたこともなかった。
それでも昨年に日本被団協がノーベル平和賞を受賞したのは「やはり、うれしかった」。発表の半年ほど前、がん闘病中だった三鈴さんが他界していたのが無念でならない。「代わりに義父へ報告しよう」。それも参列の動機となった。
「来て良かった」と松本さんは言う。語り継いでいく使命が、私たちにはあります―。こども代表の誓いが響いた。「孫にも話しておこうか」。新たな宿題ができた。 (田中美千子)
(2025年8月7日朝刊掲載)