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[戦後80年] 岩国の川下空襲あす80年 響く音 雨戸が担架代わり 飛行場標的 民間人も犠牲

 旧岩国海軍航空隊の基地があった岩国市の川下地区が9日、米軍の空襲を受けて80年の節目を迎える。軍事施設近くの民家も攻撃に遭い、多くの犠牲者が出た。当時を知る人は少なくなっている。関係者に当時の話や今の思いを聞いた。(川村奈菜)

 地元の野元知恵子さん(89)は、当時9歳で川下国民学校(現川下小)の4年生だった。祖母と一緒に防空壕(ごう)へ逃げ込んだ。布団をひっかぶり耳をふさいで体を丸めた。信心深い祖母が「南無阿弥陀仏」と繰り返し、唱えていたことを覚えている。「バリバリバリ、ガチャガチャ」とものすごい音だった。「ガラガラガラガラ」と爆弾が当たり、瓦が壊れる音もした。「あの異様な音は今でも忘れられない」と顔をしかめる。

 静かになって外に出ると辺りの様子は一変していた。隣の家の母屋や蔵が燃えていた。兵隊から「雨戸を貸してください」と頼まれた。担架代わりにするためだったという。「血の付いた兵隊さんがたくさんおっちゃった」と振り返る。

 ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのパレスチナ自治区ガザへの攻撃…。今でも世界中で戦争が続いていることに胸を痛めている。「人間同士で命の取り合いなんてばかなことをして。平和が一番です」と実感を込める。

 近くの山福薫さん(92)は当時12歳。太平洋戦争の末期、岩国市南岩国町の愛宕山丘陵地にあった旧海軍の地下飛行機工場、第11海軍航空廠(しょう)岩国支廠に学徒動員中で被害を免れた。しかし、帰宅途中、空襲で亡くなった人をトラックに運び込む人の姿を見たという。

 飛行場に近い川下地区には、航空機を格納する「掩体壕(えんたいごう)」が点在していた。米軍機はその掩体壕を攻撃し、軍人だけでなく、民間人も巻き込まれた。山福さんは「民間人も兵隊も関係なく命を奪われる。今も(世界の)あちこちで戦争があるが、つまらん戦争はやっちゃあいけん」。

 旭第一自治会の江波(えなみ)三郎会長(79)は、川下空襲から1カ月もたたない1945年8月28日に生まれた。しかし、子どもの頃、爆弾の傷痕があるとされる塀が近所にあり、母親のおなかの中にいた時に川下地区で起こった出来事を身近に感じてきた一人だ。

 岩国海軍航空隊の飛行場は戦後、米軍に接収され、62年に米海兵隊岩国基地となった。「80年前、飛行場があるから狙われた。それは今も起こり得ること」と米軍の動きに日々、問題意識を持ち、平和な世界を願う。基地の街で起こった悲劇を繰り返さないために。

慰霊祭 犠牲者悼む

 2日夕には岩国市旭町の旭会館で、空襲の犠牲者の冥福を祈る慰霊祭と盆踊りがあった。

 慰霊祭は旭第二自治会の主催で地元住民のほか、県や市の関係者約50人が出席。読経が響く中、館内に設けられた祭壇で焼香した。空襲のほか、太平洋戦争の戦死者や、今年初盆を迎えた地域の人も追悼した。

 自治会によると、慰霊祭と盆踊りは1952年、空襲で亡くなった地域の人の霊を慰めるため、地元の有志により始まったという。以前は車町など空襲の被害を受けた他の地区でも開かれていたが、担い手不足によりなくなったという。

 旭町では、若い世代にも伝えようと、子ども会を通じて地域の小学生にも参加を呼びかけている。今年も4人が参加。川下小6年の丸茂莉緒奈(りおな)さん(11)は「戦争は怖い。もうそんなことはあってほしくない」と顔を曇らせた。

 昨年までは屋外で慰霊祭をしていたが、今年は熱中症対策で初めて屋内で開いた。旭第二自治会の為重英雄会長(74)は「住んでいる土地の歴史を知れば、親しみが湧くはず。時代とともに形を変えながらでも、慰霊祭は継承していかなくてはいけない」と力を込めた。(川村奈菜)

川下空襲
 長崎に原爆が投下された1945年8月9日に発生。岩国海軍航空隊そばで、田畑も広がる現在の旭町や車町、川下町が被害を受けたとみられる。「アメリカが記録した山口県の空襲」(工藤洋三著)によると、県知事の引継書の中の「警備隊引継書」からの出典として、空襲は午前11時20分~午後0時50分で、97人の死者(うち軍人50人)などと記す。岩国市史によると死者46人、負傷者67人、全壊家屋16、半壊家屋15。一方、市が1970年に発行した「岩国駅周辺被爆記録」には、死体収容などに当たった市職員の証言として「二百四十人死者があった」との記述もある。さまざまな記録が残り、被害の全容は定かではない。

(2025年8月8日朝刊掲載)

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