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山口の被爆者・被爆2世 80年 <下> 木原千成さん(94)=防府市

核廃絶求め米で惨状訴え

「露米に声届かぬ」危機感

 防府市の木原千成(ちせ)さん(94)はあの日、爆心地から約3キロ離れた広島市尾長町(現東区)にあった広島逓信講習所の寮で被爆した。14歳だった。米軍のB29爆撃機が見えた直後、閃光(せんこう)が走り、鼓膜が破れるほどの爆発音と爆風に襲われた。頰などに傷を負ったが、大きなけがはなかった。すぐに防空壕(ごう)に逃げ込み、その後に裏山へ避難した。

 翌朝、古里の防府市に戻ろうと爆心地近くを通ると、息絶え絶えの負傷者がずらりと道路脇に横たわっていた。「まるで生きている人間幽霊のようだった。手足は腫れ上がって真っ黒になっとった。むごったらしいというか残酷というか。恐ろしゅうて…」。言葉を詰まらせる。

 戦後は山口県内の電電公社(現NTT)で働いた。声がかかれば小学校で体験を語った。20代の頃からは一人でも多くの被爆者の声を残そうとボイスレコーダーを持って県内各地を回った。聞いた話をまとめて1979年、徳山市(現周南市)の徳山被爆者の会の被爆体験文集「渇き」の創刊号を発行した。「鹿野町(現周南市)とか遠くの方まで行くのは大変やった。話を聞くのは得意じゃないけど、世界で初めて起きたことやから、やらにゃいけんという責任を感じた」と振り返る。

 「核兵器を枕にして寝ている現状では、いつ地球上のどこに原爆が爆発するか分かりません。核兵器廃絶のために、一人一人何かしなくてはいけません」。67歳だった98年7月、日本被団協の遊説団の一員として渡米し、ワシントンで被爆体験を語ってそう訴えた。原爆が引き起こした惨状を知ってもらい、多くの人に行動してほしいとの一心だった。

 その26年後の2024年12月、日本被団協がノーベル平和賞を受賞した。「うれしいのはうれしかったが、活動から何十年もたっていた。頑張ってきた人たちの多くは死んでしまった。もう20年早かったらね…」。複雑な思いをにじませる。

 被爆80年の今年。世界各地で戦争や紛争が続き、核兵器はなくなっていない。「ロシアとか米国に被爆者の声が届いてない。日本も平和ぼけして核兵器廃絶に向けた機運が下がっている」と危機感をあらわにする。日本が世界平和に寄与する方法については「本当の平和国家になるには、原爆の被害だけでなく加害も教えんにゃいけん」と力を込める。(鈴木愛理)

(2025年8月7日朝刊掲載)

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