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社説・コラム

社説 被爆80年 模擬原爆 広島・長崎も解明へ連携を

 首都のベッドタウン、西東京市の小さな公園には市教委が設置したばかりの説明板がある。「模擬原子爆弾の着弾・爆発地点」。80年前の7月29日、ジャガイモ畑に落ちた特殊な爆弾で女性3人が死亡した場所だ。投下したのは11日後に長崎に向かうB29爆撃機ボックスカーとされる。

 模擬原爆―。米軍が長崎に落としたプルトニウム原爆のファットマンと同じ形状、同じ重量で、パンプキンと呼ばれた。原爆の実戦使用の予行演習として1945年7月20日から本州と四国の18都府県に計49発を投下する。核爆発は伴わない高性能爆弾で約400人が犠牲となった。

 入念に、冷徹に核の使用を準備した事実にがくぜんとする。投下地の一つ、愛知県春日井市の教員らが米軍資料を調べ、原爆投下に向けて改造したB29などの専門部隊が各地で模擬原爆を落としたことが判明して30年余り。足元の史実を語り継ぐ動きが再び広がる。西東京市でも市民団体の要望が行政を動かした。

 原爆の惨禍に直結した作戦の実態に二つの被爆地はどれほど関心を寄せてきたか。広島の原爆資料館には模擬原爆の投下地を伝えるパネル展示があるが、簡単なものだ。

 民間のグループ、個々の研究者など調査の担い手は米資料を手がかりに現場を歩いて住民の記憶をたどってきた。判明した投下地点は東京駅八重洲口付近もあれば、住宅密集地に軍需工場、畑や山中もあってさまざまだ。計画の投下目標からずれたケースも多く、調査は難しさを伴う。

 信濃川沿いの畑で4人が死亡した新潟県長岡市では住民の募金などで碑が置かれ、市の平和学習に活用される。富山市や大阪市などでは追悼の行事や法要が続く。共通するのは足元の被害を原爆の惨禍と一つに捉え、核兵器廃絶を強く願う気持ちだろう。

 ただ自治体の姿勢には温度差がある。最初に模擬原爆が使われた茨城県北茨城市にも昨年7月、記念碑が建立された。市は関わらず、全て有志の自費である。こうした営みをもっと支援できないか。

 神戸大大学院生で模擬原爆を研究する西岡孔貴さんは、不明のままの神戸市内の着弾点を捜している。広島に原爆を落としたB29エノラ・ゲイがその13日前、投下訓練をしたと考えられる。これまでの山中の踏破では特定に至らなかったが、地道に調査を続けていくという。若い世代の熱意の輪をさらに広げたい。

 決して昔話ではない。模擬原爆から広島、長崎に至る一連の軍事作戦は、米国にとって戦後の核戦略のベースになった。3発目、4発目の核使用こそなかったが、量産型であるプルトニウム原爆を模した爆弾で投下訓練をしたこと自体、さらなる本格使用を想定したとしか思えない。長崎の惨禍を経た8月14日まで模擬原爆は使われている。

 被爆地は行政も民間も、各地の取り組みともっと連携すべきではないか。「点」にとどまる調査を集約して全体像を解明し、例えば原爆資料館の企画展などで広く発信する意味は十分にあるはずだ。

(2025年8月8日朝刊掲載)

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