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連載・特集

戦後80年 備後の体験者 <4> 福山空襲で自宅を失った 松岡義晃さん(90)=笠岡市

布団かぶり夢中で避難

 福山市中心部のJR福山駅に程近い東小(東町)。校門前に立った松岡義晃さん(90)=笠岡市=は目の前の一本道を見つめ、つぶやいた。「親に手を引かれ、夢中で逃げました」。1945年8月8日夜から数日間の凄惨(せいさん)な出来事は、今も脳裏に焼き付いている。

 福山南国民学校(現南小)の5年生だった松岡さんは、父正義さん、母稲子さんと3人で暮らしていた。現在の伏見町や元町付近に当たる「築切町」に自宅があった。

辺り一面火の海

 あの夜。夕食を終えた一家だんらんのひとときに、空襲警報の音が響いた。照明弾が落ち「夜なのに真っ昼間のように明るくなった」。家の裏にあった別棟の風呂に焼夷(しょうい)弾が落ちた音が聞こえた。外へ出ると、辺り一面が火の海になっていた。

 防火水槽の水に布団を漬けて頭からかぶった。母の手を握る。布団の重みを感じながら、懸命に歩を進めた。「負けられません、勝つまでは」。そう繰り返し唱え、建物疎開で広くなった線路沿いの道や福山師範学校付属小(現東小)の前を通って逃げた。

 近くの山や市内の親戚宅で数日過ごし、自宅へ向かった。だが、建物という建物は跡形もなくなっていた。「まさに一望千里だった」。焼け残った家財道具を持ち帰ろうと毛布を広げ、地面を掘っていると、トラックを降りてきた大人が何かを確認するように毛布をめくった。

 不思議に思ってトラックに視線を送ると、大人の足が1本、荷台からはみ出ていた。「死者を集めるためのトラック」だと悟った。だが怖さは感じなかった。ほんの数日前と一変した惨状に「平時の人間の感覚ではなかったんだと思う」と振り返る。

恩師に感謝の念

 通っていた南国民学校も焼け、半年ほど福山師範学校付属小を間借りして授業を受けた。「先生が焼け残った黒板を借りてきてくれてね」。混沌(こんとん)としたさなかに、教育を続けてくれた恩師に感謝の念を抱く。

 戦後、胸に秘め続けてきた自身の空襲体験を今回初めて公にした。「ある日突然、『今』がなくなる。二度と戦争を起こさないで」。平和への願いを次代に託す。(頼金育美)

福山空襲

 1945年8月8日午後10時25分ごろ、91機の米軍B29爆撃機が福山市の上空に飛来。約1時間にわたって556トンの焼夷弾を投下した。市街地の約8割に当たる314ヘクタールが焼失。355人が犠牲になり、家屋1万179戸が焼失した。

(2025年8月8日朝刊掲載)

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